西表島へ
この駄文が読まれている今、僕は西西表島にいる。こういう書き方をすると、週刊誌に載っている本物のコラムニストの文章のようだな。つまり書いている今はまだ東京なわけだ。
西表島は二度目だ。はじめて行ったのが一五年前。新婚旅行の名を借りた昆虫採集旅行であった。子供の頃北杜夫の「どくとるマンボウ昆虫記」で読んで以来、沖縄はあこがれの聖地だった。沖縄に行きたし、されど沖縄は遠し。貧乏ミュージシャンにとって彼の地はあまりにも遠かった。結婚でもして、新婚旅行を利用でもしないと、行ける場所ではなかったのだ。妻にはすまなかったと思う。そして出掛けた石垣島では僕は興奮のあまり初めの二晩を眠ることが出来なかった。図鑑で見たことしかないあんな蝶こんな蝶が本当に生きて舞っていた。日本最大のゴマダラチョウが飛んできたときは北杜夫も書いていたが新聞紙が飛んで来た、と思った。竹富島では常に視界の中に複数の蝶が入っていることに驚喜した。そして西表島で「熱帯」を知った。拭っても拭っても止めどなく流れる汗にほぼ脱水状態となって、やっと見つけた自動販売機で飲んだシークワーサージュースの戦慄的な旨さはただごとではなかった。ここでも沢山の初めましての虫に会ったのだが、もうこのあたりで感動の許容量が一杯になったようで、実は僕は西表島のことをあまりよく憶えていないのだ。その後、子供と一緒に石垣島へは何度も行き、レンタカーで廻ったりして、こちらの島はなんだかすっかりお馴染みになったのだが、西表のほうは未だに夢の島のような印象がある。
少々の不安もある。かつて二度目に訪れた竹富島は最初の時とずいぶん印象が違っていた。初めて行った時、観光客の交通手段は自転車しかなくって、実にのんびりと島巡りが出来た。自転車をゆっくーりころがして行き、めぼしい蝶をみつけるとやおら走り出し、追いかける。興奮が冷めてふと、辺りを見回すと強烈な日差しの中に沢山の蝶が音もなく羽ばたいている。圧倒的な静寂の中で、イキモノが在るがままの姿できちんと在ることに感動した。よそから来て網を振り回している自分が場違いな感じがして申し訳ないような気持ちになった。同行の妻は「なんだかこの島には神様を感じる。」と言っていた。
十年後に子供と一緒に再びこの島を訪ねた。やはり自転車を借りて走り出したのだが、今度は観光客を乗せたワゴン車が次々と僕たちを追い抜いていって危なっかしくてしょうがなかった。とても虫をのんびりと探しているわけには行かなかった。静けさもなくなって、クルマのたてる土埃の中で僕たちは少し呆然としていた。島の人の生活を知らない余所者がなにをぬかすか、と怒られそうだけど、「神様はどこか行っちゃったみたいだね。」というのが僕たちの正直な感想だった。
観光に生きる島は観光で生きるがためにその財産である自然を作り変えなければならないことがある。観光客の便利を計って施設を作り、クルマが走り良いように道を整備する。そして引き替えに何かを失う。便利さを享受しながら僕たちは「この島も変わったな」などと勝手なことを思うのだ。竹富島でワゴン車を運転していたワカモノは「本当はクルマじゃなく自分の足でゆっくりこの島を見て欲しい、でもツアーに組み込まれた二時間で廻ろうとするとこれしか方法がないんだよね。」と言っていた。あこがれの場所の現実はきびしいのだった。
西表島も事情は似たようなものだろう。実際今回僕たちが泊まる場所は十五年前にはなかったところだし、島の様子は前とはずいぶん変わっているに違いない。悲しい思いをすることになるかも知れない。でも、そんな思いもひっくるめてやっぱり僕はワクワクして眠れなくなってしまうのだ。ああ、なんだか居ても立ってもいられないぞ。