西表島日記

 10月15日、吉良家三人は朝4時40分に家を出る。羽田までの道路が信じられないほど空いていて20分ほどで着いてしまう。6時10分の石垣行きの便に乗り9時半には石垣島にいた。朝御飯を食べようと街をうろうろするが、まだお店が開いていない。やっと開店直後のおそばやさんを見つけ八重山そばを頼む。僕はこのおそばが大好きで、5日間の滞在中5回食べた。おそるべきスピードで海面を行く高速船で11時に西表島に着く。少し早すぎだ。
 宿のチェックインをすませ、海に出る。暖かい海水に入ってプカプカ浮かんでいると、やっと南の島に来た事を実感する。「ひゃー」とか「いぇー」などと奇声を発しながら三人はそれぞれに西表初日を味わいはじめるのだった。海につかりっぱなしの小峰公子とコドモを残し、僕は捕虫網を手にあたりを散策した。アオタテハモドキやリュウキュウアサギマダラなどのお馴染みの蝶が現れては消えていく。十数年前この島を訪れたときは必死でこれらの蝶を追いかけ回したが、今はときどき網に入れて眺めたら逃がしてしまう。こめかみがどくどくするようなあの興奮はもうやってこない。少しサビシイ気がした。
 午後一杯を海で過ごし、オリオンビールと泡盛で夜は更けていく。
 二日目。レンタカーを借りて島の北部に向かう。僕たちが滞在したのは大原という島の南の集落で、30キロ程北に行くと、上原の集落、その先に月が浜、星砂の浜などがある。月が浜で少し泳いだあと、星砂の浜に向かった。広いラグーンに守られたここの珊瑚礁はとても穏やかだ。子供も安心して泳がせていられる。だーれもいなかったので持ってきていたお煎餅を餌に魚を集めてみた。お煎餅のカケラを持って潜ってみると笑ってしまうほど沢山のサカナが集まってくる。クロスズメダイは乱暴なやつで手や足を噛んだりする。ピラニアだったら大変だがスズメダイなのでだいじょうぶ。この日は曇りがちだった。一時間も浸かっていると西表島といえどもさすがに10月、結構寒い。こんなときは腰ぐらいの深さの潮だまりに入る。ちょうどいい感じのお湯になっていて、「はー、極楽極楽」の温泉気分だ。潮だまりにも小さなサカナがいっぱいだ。お湯にのぼせたりしないんだろうか。
 浜に面したレストハウスでお昼にする。なにはともあれオリオンビール。それにカレーライス、焼きそばにタコライス。気持ちのいい風にふかれながらこういうがさつな料理が最高だ。
 三日目。今日は宿の金城さんのすすめに従って西表温泉に行ってそこに泊まることにした。プールや水着で入る温泉やジャグジーなどがあって、とってもリゾートな気分の施設だった。西表最高峰の古見岳をながめながらお湯につかっていると、もうなんだか申し訳ないような気分になってくる。
 虫を採ったり、泳いだり、泡盛を飲んだり、でこの日も終わっていく。
 四日目。ああ、今日一泊で明日は帰らなくちゃならない。何日いても最後は去って行かなくてはならない観光客の僕たちは基本的にヨソモノだ。終わりが近づくといつもこのことを思い知らされ、寂しくなる。
 大見謝と言うところのマングローブ林に出掛けた。白いビーチとは対照的にマングローブに覆われた海岸は陰鬱な雰囲気だ。かすかな腐敗臭が漂っていてそこはかとなくアヤシイ。膝根と呼ばれるマングローブの根っこがいたるところから生えている。その名の通り痩せた人の膝を折り曲げたような形でそれが無数に泥の中から突き出ている様は、ちょっと一人では来たく無いなあと思ってしまうほどに不気味だ。しかし、そこもやはりイキモノに満ちた豊かな世界だ。10センチもあるキバニシが膝根に群がっていたりヘラヤガラの幼魚が浅い流れを登っていたり、歩くたびに足元からトビハゼが逃げていったりする。
 コドモと小峰公子は貝拾いに夢中になっている。クモガイやャfガイやソデガイやヒメジャコなどの見事な貝殻を集めている。ふと自分の足元を見ると猛毒のアンボイナが転がっている。万が一生きているこいつを拾ったりしたら大変だ。この形の貝には絶対触っちゃならないよ、と教える。が、僕自身そんなに貝のことを知っているわけではないので密かにかなり不安を覚えた。
 干潟をずーっと海の方に歩いていくとミナミコメツキガニの群に出くわした。2センチ程の青いきれいなカニで、これが辺り一面を覆い尽くさんばかりに、いやほんとうに辺り一面を覆い尽くしていた。十万とか百万の単位でいたんじゃないだろうか。とりあえず足元にいる数匹を捕虫網に入れてみる。小さなロボットみたいにがちゃがちゃいっている。捕まえてもどうしようもないので放した。ぐるぐると回転してあっという間に砂に潜ってしまった。
 それにしても何と膨大な量の生命だろう。これをはぐくむ干潟とそれに連なるマングローブ林の豊かさに畏敬の念すら覚えた。
 大原に戻り、最後の午後を楽しむ。南風見田という海岸に行った。ここの砂浜は西表随一の長さを誇っているそうだ。海の中は藻場になっていて珊瑚礁のような美しい熱帯魚のたぐいは少ない。コハダやアジのような、おいしそうなサカナがいたけれど、潜って面白いところではなかったので「ここはおわりにしよう」とコドモに声をかける。コドモの後ろになんだか変なものが漂っている。サカナの浮き袋みたいなモノから青い長いひもがでていて・・・「カツオノエボシだ!」こどもに「動くなっ。クラゲがいる!」と言うとコドモは「え!どこどこ!」と少しパニックに陥って、あろうことかカツオノエボシに近づいてしまう。すんでの所でコドモを毒クラゲから遠ざけることに間に合ったが、しばらく心臓がばくばくしていた。よくよく見るとクラゲは3センチほどの小さいものだったけど、これだって僕たちの旅を台無しにしてしまう力は充分に持っているはずだ。ああ、何もなくて良かった。
 その日は夜から嵐になった。二時を回った頃から恐ろしいほどの雷が鳴り続け、とうとう停電してしまった。南の島の底力を見る思いだった。
 なにか、嬉しいな、楽しいな、だけの南国リゾート気分に浮かれていた僕を戒めるような、そんな一日だった。
 最終日、雨は降り続いていた。お昼過ぎまで時間があったので、雨の中をドライブに出掛けた。泳げる天気では無かったし、昨日のカツオノエボシがすこしまだ意識の片隅にあった。クルマの前をシロハラクイナが横切る。運動神経の鈍そうなこの鳥は何度も見かけたけど、いつもあわてて道路を横断中だった。カンムリワシが電柱にとまっていた。ミナミイシガメが道路脇で思索に耽っていたので捕まえるとおしっこをした。放すとウサギもビックリのスピードで逃げていった。この時期アスファルト上を歩く姿が見られるというマルバネクワガタを密かに期待していたのだが、ついに見つけることは出来なかった。
 西表の道路は石垣島のように周回は出来ない。大原の西の南風見田から島の四分の三くらいまで行った白浜という集落が車で行ける終点になる。最後に白浜まで足を延ばし、林道を少し走ってみた。小さなカエルがいっぱい出ていた。踏まないように気をつけたけど、二、三匹はつぶしてしまったと思う。申し訳ない。そしてセマルハコガメを見つけた。天然記念物のこいつを見るのは初めてだ。腹側のこうらが真ん中で蝶番みたいになっていて顔を引っ込めてこうらを閉じると完璧な固い「箱」になってしまう、という解りやすい身の守り方をする愉快なカメだ。手に取ると本当にそのようにした。地面に置いてもしばらく箱であり続け、やがて危険が去ったと判断したのかそろりそろりと首を出し、森の中に消えていった。
 たかだか五日の滞在だったが、西表島は吉良家にずいぶん沢山のものを見せてくれた。それが真の力のほんの僅かであったにしろ他では得難い体験をさせてくれた。美しくて楽しい、だけじゃすまないリアルな自然だからこその、奥行きのある感動を与えてくれた。
 石垣島で「海洋危険生物」という本を購入し帰りの飛行機で読んでいて、飛行機の揺れが気にならないほどのおっかなさを味わった。僕たちが遊んだ珊瑚の浜、マングローブの林、藻に覆われた波打ち際、どこも素晴らしい場所であると同時に、本当に危ないイキモノが住んでいる危ない場所でもあったのだ。「あー、南の島はいいなあ」などとたるんだ気持ちで出掛けて行った僕は少し横っ面を張られたような思いがした。ハブクラゲもカツオノエボシもオニダルマオコゼも等しく南の島の自然の一員であり、こちらが付き合い方を間違えると命を落とすようなことにもなりかねない。そんな本気の大自然なんだ、ということを今更ながらに思い知った。
 遠くない日またこの島を訪れることになると思うが、その時はもう少しこちらも気持ちを引き締めて望んだ方が、少なくとも僕たちにとっては身のためだな、とそんなことを飛行機の中で考えていた。

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