不適者生存
進化論という厄介な理屈がある。今日のところは概観だけで勘弁していただく。
ダーウィンなどが提唱したもので、おおよそのところ、生物が環境の変化に対応してこれに適するものが生き残るというものだ。例え環境が悪化する場合でも同じで、これに対応できないものは滅び、適応できるものが栄える。遺伝学や分類学では、今も通用するらしい。長年の実証に耐えたのであるから、生物学に限って言えば、幾つか留保をつけるとしてもこれを否定できないように思える。
だが、これが生物としての人間のみならず、歴史学や経済学などへ「応用」されるようになると色々な問題が起きる。
制度や道具を工夫し続けて、人間社会が段階を踏んで発展してきたかのような錯覚を生み、また「優れた文明」或いは「優れた文化」を持つと自負する連中が、そうでない者から奪い尽くすことを是とするような考えを生むことになった。
十九世紀から二十世紀まで、欧米がほぼ一人勝ちの状況であったから、自分達が勝利したので「適者」、アジアやアフリカなどは敗北したので「不適者」であるかのような価値観が生まれた。欧米の社会は進歩し、その他は停滞しているかのような考えがまかり通ったのである。つまり、現在「繁栄」している者が環境の変化に耐え抜いて生き残った「優秀」なものだという概念を再生産することになった。
だが、文明や文化の豊かさというのは、掠め取った富や見た目の美しさでは計れない。力と富を集積した国家が世界をリードすることは避けられないとしても、理不尽な蛮行を許すわけには行かない。
語るに足る文化は、人間の生きる環境を劣化させるのではなく、長期にわたってこれとうまく付き合うことからしか生まれない。不適者である私は、生物として退化しながら、自然にお伺いを立てて生きている。