久しぶりの海

朝晩涼しくなり、虫の音が聞こえる。秋の夜長か、何とはなしに思い出すことがある。
どこから見ても、今の私は山の人間だ。通算すればもう二十年以上も山の中で生活している。毎日山の空気を吸い、川の水を眺め、山のものを口にする。ここで子供が育ったし、方言も少しは様になってきた。
この夏、友人の誘いがあり、名古屋港へ行く機会があった。スペインの帆船が停泊しているとのことで、何気なく見たくなったのである。山暮らしとはいえ、まったく海を見ないわけではない。年に一度は、頼母子の連中と海へ出かけ、魚を食べてくる。
だが、この度はいつもとは違っていたように思う。港の水が綺麗なわけではないし、景色が良いわけでもない。魚釣りをする人がおり、フェリーが行き来する海の日常に、帆船があっただけだ。
しかし、しばらく潮風に当たっている間に、海の感覚が戻ってきた。陽を浴び、湿っぽい風が皮膚をなでる。ふと見ると、小さなヨットが港の中を走っている。
急に、海草や貝の匂いが鼻から入り、血液に塩が混じったような、毛穴が充実したような気がしたのである。海を前にして、ゆったり時間が流れ、波のリズムが体の中に甦ったのだろうか。自分本来の姿を再発見した一日であった。
これからすると、頼母子で出かける海は、どうも山の人間としてあわただしく見ていたに過ぎなかったように思う。これらは景色のよい海、海水浴のできる海、魚のうまい海であって、当たり前の海ではなかったことに気づいた。
海の人間が山の中にいることは確かに異質である。だが、同化せず滅びた鬼のように、海の人間であることを貫くのが私の本分かもしれない。

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