負けず嫌い
これから、私が「負けず嫌い」であるかどうかを書こうというのではない。ある若者が「負け嫌い」が正しいと私に難題を吹っかけてきたからである。私が「負けず嫌い」かどうか自分ではよく分からない。
争い事そのものをできるだけ避けようとする人はいるだろう。だが、長い人生を考えれば、競争せず思うまま生きることができるのは一部の恵まれた人だけで、ある意味贅沢な生き方である。
さて、現在「負けず嫌い」は負けるのを強く嫌う意味で使われているだろう。好んで負ける人は少なかろうから、敢えて強く嫌うと強調したのである。
これに似た表現で「食わず嫌い」というのがある。これは「食わずに、嫌う」という意味で使われていると思う。
「負けず」については、「負けず劣らず」という言い方がある。この「ず」が否定の意味であることは普段の用法からも分かる。
これらから「負けず嫌い」の成り立ちは、「相手を、負けずに嫌う」ではなかろうか。ただし、思うままを書いているにすぎないので、自信がある訳ではない。
聖人の身ではないから、自分がどこかで嫌われていることは避けられない。まして、人の心底を斟酌することができない私であるから、あちこちで嫌われていると言う方がよいかもしれない。
例え相手が自分を嫌っていても、自分は相手を好きであり続けることは難しい。若い時の恋でもない限り、しんどい話である。そこで段々と相手が好きではなくなり、あげくその相手を負けずに嫌うようになる。
私はこの世の「しがらみ」が嫌いではない。だが、余り一生懸命拘る気にもならない。自分の愚かさと戦うことだけでも、相当に手強いからである。