岐路
岐路は分かれ道だ。人生にも色々な岐路がある。若者も、卒業や入学、就職や結婚などの岐路があるだろう。
徒手空拳で生きてきた私であるから、随分と岐路があった。郡上に引っ越してきたのもその一つである。「何で、郡上に来たの」と云う質問を何度尋ねられたことだろう。その都度、言葉が詰まってしまう。私自身その答を持ち合わせていないからだ。
自分を他者の目で見ることは難しい。純真な目で見ることは更に難しい。人間ならどこかに「うぬぼれ」や自分に対する甘さを持つことは避けられないように見える。信念を常にわきまえ、若いときの潔癖さを保って生きることはまず私には無理であった。どこかでタガがはずれ、左程でもないのに自分の生き方に何らかの価値を見つけ、それを押し通す「わがまま」が出てきたのである。
生きていくには理想や夢が必要だとしても、毎日腹が減るし、寒さを凌ぐのに暖房も必要だ。つまり、人として生きていくには大方金が必要である。幾ら年をとったからと言え、自分の夢や理想を投げ出すには勇気が要る。こんなことを考えること自身が年を取ったということかもしれない。
自分の姿が年老いて力のないように映ることは認めたくはない。が、これはどうやら避けがたい事実である。ここで道学者のように、「真理」らしきことを述べてみたいところだが、やはり腹ふくれない。
私は、これまで、時代やら評判やらは余り気にならなかった。しかし最近、何でもありの世の中と言っても、悪意のない小さな事実の積み重なった評判というものは限りなく真実に近いと思えるようになった。
この歳になって、岐路に立てるとは嬉しいやら、悲しいやら。ピンチをチャンスにするべく、構想を練っている。