人物画像鏡(8) -『古事記』の仮名-

今回は、「斯麻」「意柴沙加宮」に続いて、難解な「今州利」に取り組んでみたい。
従来は、「開中費直・穢人(かはちのあたひ・えひと)」「今州利」と分けられることが多かった。これは、この鏡が日本国で製作され、かつ複雑な仮名が六世紀初頭に成立していたことを前提にしている。
「穢」は『史記』などでも「濊」と通用する。とすれば、「穢人」を「濊人」と考えることもできるだろう。むしろ「濊人・今州利」で意味が通じるのではあるまいか。
さて、「今州利」は人名であるから、「穢人・今州利」とすれば、「今(コム キム)」が姓、「州利」が仮借による名であるとも考えられる。この時期は既に中国風の一字姓が広まりつつあった。
だが濊語が明らかでないし、継体紀七年(513年)六月条に百済の「洲利即爾」、同十年(516年)秋九月条本文にやはり百済の「州利即次」という将軍が登場するので、「今州利」という三字の複姓とも三字の名とも考えられ、素直に姓と名だとは確信が持てない。
ここでも、「州(す)」「利(り)」は『古事記』の仮名であり、前回取り上げた「斯麻」「意柴沙加宮」の例とも考え合わせ、後に『古事記』の仮名となる文字が偶然とは思えないほど使われている。
画像鏡の仮借が六世紀初頭で、『古事記』の仮名が八世紀初頭だから、ほぼ二百年間連綿と伝えられたことに驚かざるをえない。
これは画像鏡の後も、百済でこの仮借の用法が伝統化し、「仮名」に近い形で使い続けられたと考える他あるまい。百済と日本国との関係は、この後も継続しており、仏教の伝播時など徐々にこの用法が知られるようになっただろう。
だが、これが日本国の仮名として定着するには、百済の滅亡により多数の知識人が列島に渡来することが必要だったのではあるまいか。私が「富夲」銭をこの文脈で捉えているのを理解していただけるかもしれない。
私は、『古事記』の仮名が百済の系譜を引き、万葉仮名の一つの大きな源流になったと考えている。

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