『説文』入門(11) -「十」について-

一から数えて十になる。そろそろこれも危なくなってきたが、『説文』の定義がなかなか面白いので取り上げてみる。
「十」は三篇上029に「十 數之具也 一爲東西 丨爲南北 則四方中央備矣」とある。まずは「數之具也」であるから、数としての解が第一。
「一爲東西 丨爲南北」で、横の「一」は東西を表し、「丨(たてぼう)」は南北を表していると云う。
「則四方中央備矣」は、交差するところが「中央」で、東西南北の四方と中央が備わっていると解しているわけだ。これを道路としてみれば、東西と南北が中央で交差している形と考えられる。つまり著者である許慎は、ここでも陰陽五行説で解釈していることになる。
従って、「一」と「丨」がそれぞれ東西と南北を指しているから、指事と考えたことになろうが象形字と考えられなくもない。
『説文』では「十」の音を示しておらず、段氏玉裁は『玉篇』及び『廣韻』を踏襲し「是執切 七部」としている。「是執切」の「是」を声母、「執」を韻母と呼ぶ。「切」というのは「是」の頭子音と「執」の終末音を切り取り、それらを合わせた音だとする一種の発音記号である。なかなか洒落た方法だと思うが、「是」にしろ「執」にしろ、「是執切」で表した時代の音が変わってしまえば、現代にその音を復元することが難しくなってしまう。このため、それぞれ当時の「是」「執」の音を各方面から確認しなければならなくなり、厄介な作業となるのである。一応仮名音では、「十本(ジッポン)」の「ジッ」又は「ジュウ」辺りとしておく。
人物画像鏡シリーズで、この「十」を「夲」の略体と考え、「日十大王年」を「日夲大王年」と解しているが、残念ながら、ここでは入声音でもあること、数の具で「日が十個」とする以上の情報は得られない。
ただ、「日」「十」共に入声音とすれば仮名とみることが難しくなるだろうし、義に関して言えば「日が交差する処」というニュアンスは得られるかもしれない。