人物画像鏡(18) -「大王」は「おおきみ」か-

「大王」を「おおきみ」と読むことがあり、画像鏡(16)でこれを漢語に解したことが気になるので、再度ここで確かめてみることにした。この鏡を列島で製作したと考え、出来るだけ仮名で読むべきだとする立場もあるだろうから、もう少し検討しなければなるまい。
銘文中、百済が「斯麻」「意柴沙加-宮」「今-州利」などの固有名詞をそれぞれ仮借字で表記し、これが後の『古事記』の仮名に関連すると考えた。つまり「大」「王」がそれぞれ『古事記』の仮名ではないので、私は「大王」をそれとして漢語に解したのである。
稲荷山鉄剣に「獲加多支鹵大王」という句があり、また同銘文中に「意富比垝」という鼻祖が記されている。「獲加多支鹵-大王」と読めるのであれば、同文中で「意富(おほ)」が使われていることになるから、「大王」の「大」を「意富」と読んでいたとは考え難い。従って、稲荷山鉄剣の場合は「大王」を「おおきみ」とは読み難いのである。
また、継体紀三年(509年)条の注で『百済本記』の「久羅麻致-支彌-從日本來」という文を引いている。『古事記』の仮名で「き(甲)」は「岐」「伎」、「み(甲)」は「美」「彌」である。「岐」「伎」の音符は「支」だから、これらをほぼ同音と考えてよさそうだ。よって、「支」「彌」は百済で仮借字としても使われていたと考えて間違いあるまい。
これから、「大王」を倭語ないし和語とすれば、百済側では「意富支彌」とでも表せることになるし、仮にこれが列島で製作されていたとしても、実際に「嶋」ではなく「斯麻」などと仮借ないし仮名で表しているのだから、ことは同じである。
とすれば、「大王」を「おおきみ」と訓読みすることが既に慣用になっていたと考える他ないが、「斯麻」「意柴沙加-宮」ではそうなっていない。やはり、「大王」は漢語と考えるのが穏当ではないか。
ただし、当時「日夲国」で国主が「おおきみ」と呼ばれていた可能性まで否定しているのではなく、この鏡が百済で製作された点を主張しているのである。