時代遅れ

私は携帯電話を持っていない。あちこちでクレームを聞くが、心に響く説はないように思う。また私は自動車を持っていないし、運転もしない。だが、それがどうということもない。
老年に近づくと、今までの様々な経験を抽象するようになる。だが私に関して言えば、とてもこの経験をうまく今に生かしているとは言えない。
歳をとるまでに、誰でも一度や二度は死ぬような思いをしているだろう。病気の場合もあろうし、事故の場合もある。生のすぐ裏は死である。生死の間を承知しているはずなのに、愚かにも、生きることに堪能しているとは言えない。
私の場合、顔から火がでるような恥をかいたことも多い。特に若い時に、「知ったかぶり」を繰り返したが、その時々に一応反省はしてきた。あちこち綻びているとしても、長年培って作り上げたものであり、それぞれが愛おしい。それなりに完成度が高まり、少しは自分らしさが出てきたようには思う。錯覚のような気もするが、自分なりに人生を通じたテーマを持っている重さを味わっていると言えば、格好よすぎるかな。
しかし逆に言えば、これが頑なに他人の意見を聞かない傾向を生む。大した成果でもないのに、何かを守ろうとする。
自分の価値観のみならず、スタイルや好みの食べ物でもなかなか曲げられない。となると、回りの者にくどくど同じことを言うはめになる。頭が固くなってしまったのだ。思った程は体も動かないのに、口を出すことのみ多くなって煩さがられる。
行く先がさほど長くないので、こんな要約をしても将来に生かすことは難しい。今がどのような時代であるかを定義するのも面倒だから、時代遅れを自認して、遣り残した宿題をやるのみだ。