金印(9) -「倭」の音転-

史書に記される「倭」音について、『玉篇』が「倭 於爲切 順皃 烏禾切 國名」としているから六世紀に国名として「ワ」と読まれたことは確かだとしても、それ以前に「ヰ」と発音されたこともまた確かである。「倭」の語源のみならず、列島古代史の骨組みを探るためにも、この音転がいつごろ起こったのか考えてみるのも無駄にはなるまい。
検討を始める前に、この音転がまず中国側で起こったのか、それとも倭国側だったのかを確認しておきたい。結論を言うと、『玉篇』が「ワ」音を国名の義のみにあてること、恐らく「倭奴」として仮借字に使われている「倭(ヰ)」音に普遍性があると思われることから、まず倭国自身で音変化し、これが音転に反映されたと推察している。
今のところ四つの時期が考えられる。
1 前漢代
『山海經』などの史料にも「倭」の字形が見られるが、音転に関して言えば、『漢書』地理志燕地条の「倭人」を解明すればこと足りている。顔師古が「一戈反」で「ワ」と読んでいるが、『後漢書』光武本紀の「倭」が金印の「委」と仮借の関係にあることから、「ヰ」と読む他ない。『詩經』の「委-蛇」を疊韻(同韻)とし古くは「委」に「ワ」と近い音があったとしても、恐らく秦漢以後は「ヰ」の裏に隠れてしまっていただろう。
2 後漢代中ごろ
『後漢書』安帝本紀十月条の「倭國」を「倭(ワ)國」と読めないかという意味。同建武中元二年条の「倭奴國」と連続している文脈から、これらを別音とは考え難い。この時代は後漢代の安定期にあたり、金印の時代からさほど離れておらず、急激な音変化の起こる要素が少ないように思う。従って、『説文』段注の「於爲切(ヰ)」を敢えて否定できる材料に乏しいのではないか。
3 魏晋代
後漢末から急激な人口の減少が見られ、魏晋代には半減したという研究もある。魏代では更に、呉・蜀という南方の統一国家が存在したのであるから、北音を担う主体が小さくなり音韻が変化しやすい事情があった。他方、倭国側でも大乱を経て主たる勢力が交代したとも考えられる。
4 南朝劉宋代
もっとも音転が遅く起こったと考える場合だが、既に西晋の臣瓚が「倭是國名」としており、やや焦点がずれているかもしれない。
魏晋代にかなりの音韻変化が認められるのみならず、声調の主要な変化もみられるようであるし、如淳の「墨委面」説と臣瓚説の乖離からも、魏晋代が有力ではないかと考えている。

前の記事

そうめん

次の記事

人の死と歴史