金印(19) -六世紀の国家論-

六世紀前半にあったと思われる旧委奴国系への政権交代が、どのような性格であったかを国家の視点から考えてみようという試みである。
金印(18)で「磐井の乱」を史実とし、越系が五王系を破った騒乱であると定義した。その中で、継体天皇が越前の出身であることを根拠の一つにした。これは、「磐井の乱」を史実とすれば、政権交代の文脈で、『風土記』逸文や記紀の記述を検討できるからである。
だからと言って、私が継体天皇の力のみで倭国の主導権を奪えたと考えているわけではいない。越系といっても、その本宗たる勢力が旧委奴国を中心として九州北岸にあったと考えられるし、日本海や瀬戸内地方を介して越(こし)国、大和などにも有力な部族が展開していただろう。ここでは継体紀から、継体の出身地と思われる越前も越系倭人の優勢な地であったと前提したに過ぎない。
『宋書』倭國条で倭王武が述べている「西服衆夷 六十六國」を九州島と解すれば、『舊唐書』の「四面小嶋 五十餘國」は、前世紀より十か国ほど減少していることになる。
減少した時期が五世紀に遡れるのであれば、五王系の倭国が近隣の小国を滅ぼし、ある程度領域化した可能性はある。だが、その急激な勢力拡大こそが没落の引き金になったと考えられ、結局広範囲の領域化には成功しなかっただろう。
『隋書』には、「又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州 疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭」とある。
「竹斯國」「秦王國」から更に「十餘國」を経て海岸に達するのであるから、九州島ですら小国が分立していた。『舊唐書』の記す十余国の減少が六世紀とすれば、その位置から言って、竹斯国が主体となってこれを担っていたのではなかろうか。
『舊唐書』で倭国は「古倭奴國也」とされ、また倭の勢力範囲は「東西五月行 南北三月行」で、『隋書』の地理観を受けている。
これらは、すでに「古倭奴國」が越種であることは説いてきたところであり、越種人が九州のみならず本州各地を中心に広く展開している状況を指しているとすれば、よく符合するとも考えられる。
五王系に文字を独占され、越系倭人が長期にわたって中国との通商・外交で前面に出られなかったのであれば、それぞれ固有の言語に方言化し、意思伝達するのに「無文字 唯刻木結繩」に近い状況になっていたとしても不思議ではない。
だが『舊唐書』に「頗有文字 俗敬佛法」とあり、仏教が広がるにつれて急速に文字も普及したようだ。