朝三暮四

私は、何かを書こうかなと思うときには、しばらく頭を空っぽの状態にしておく。何かが引っかかるのを待つのだが、うまく焦点が合う時もあるし、合わない時もある。焦点が合ったから気に入るものが書けるわけでもないし、とりとめも無い書き出しで結構まとまったオチになることもある。
ある時、「朝三暮四って、なに」と聞かれ、ふと二つのことが頭に浮かんだ。一つは莊子(そうじ)で、もう一つは何故か「芧(とちのみ)」から越知山の神木であった。莊子については当然としても、何故後者が浮かんだのか分からない。まあ、こんなことはどうでもよろしい。
今回は前者を取り上げてみる。莊子は戦国時代末期の人で、「老莊」と並び称される思想家である。「朝三暮四」の話は、『莊子』齊物論篇に載っている。
昔、猿回しの親方がいた。猿どもに餌として「とちの実」をやりながら、「朝は三つずつ、夕方には四つずつやろう」というと、猿たちは歯をむき出していきり立つ。
そこで親方は、「それならば朝は四つずつ、夕方は三つずつにしよう」と言うと、多くの猿は大喜びしたという話である。
いくら名を変えてみたところで、実は変わらないという例として述べている。これから、一般に「同じ内容なのに表現を変えてごまかす」、「甘言で人を愚弄する」などの意味に使われる。
私はへそ曲がりからか、莊子の難しい理屈よりも、いつも猿の側に立ってしまう。確かに「朝三暮四」であろうと「朝四暮三」であろうと、合計すれば七個で変わらない。だが、猿には猿の事情がある。私にとっては朝にトースト、昼にカレーの順序を変えられてはかなわない。
物事の本質が唯一無二であるとすれば、確かに飾りごとでごまかされるのは愚かである。だが、本質などというのは朝と晩で変わってしまうこともあるのだ。