変わりばえ
八月三日、やっと東海地方でも梅雨明けとなった。例年より二週間ほど遅いとのこと。梅雨が明けたとしても、川で遊ぶわけでもないし、山へ出かけるわけでもない。例の如く、明けてしまったのに梅雨の話題である。もうすっかり真夏モードであるし、これを書いているのが郡上では徹夜踊りに入ろうかという時なのにである。従って私では、季語の厳密な俳句は無理で、川柳もどきしか作れないことがよく分かる。
めっきり外に出ることが少なくなったが、雨の最中というのに、吉田川を見てきた。台風が来たり、大雨が降ったりすると、なぜが川のことが気になる。土砂を含んで濁ってはいたが、水の色からすると、どこかで抜けた形跡はなかった。山の土砂崩れを、こちらでは山が「抜ける」という。
伊勢湾台風の時は、学校橋に材木が詰まり、堤防を越えて川下が大水になったそうだ。私がここに越してからでも、水害に二度出くわした。
一回目は、小駄良あたりに集中豪雨があり、至るところで土手が削られ、山道が寸断されていた。私も山で寝かしていた椎茸の原木を流された。
二回目は堀越に集中豪雨があり、赤谷にやはり材木が詰まって水があふれ、わが家の間際まで迫ってきたことがある。この時、なぜか茗荷の根が流れていたことを思い出す。この家の庭にも茗荷がある。その根は深くまでがっちり土をつかんでおり、これが流れるというのは根こそぎになったとしか思えなかった。ひどい土砂崩れがあったことを想像できたのである。
我が家にとっては、命に別条なかったものの、いずれも凄まじいものだった。山が荒れ倒木がそのままになっていると、豪雨で流され、大洪水の原因になる。
梅雨明け間近になると、それまでの雨で、地盤が緩んでいるところが多くなる。山が荒れ放題といってよい状態であるから、まとまった雨が降ると、気が気でなくなる。
振り返ってみれば、私はアウトドア派だったかもしれない。海辺でなら魚釣りもしたし、バイクで遠出もしてきた。一日中、家に閉じこもって本を読んだりテレビを見るよりは、外を歩くほうが気持ちよいと感じてきたように思う。
いつの頃からか進む時間について行けなくなり、先端にある時間の奥に潜むようになったと言えば聞こえがよいが、あいも変わらない自堕落な生活を楽しんでいる。