『説文』入門(33) -「科」「殘」-

落ち着いて考えてみると、碑文に登場する「科」「殘」の二字も、後のことを思えば取り組んでおく必要がありそうだ。
『説文』で「科」は「科 程也 从禾斗 斗者 量也」(七篇上247)だから会意字。「程」は「程 程品也」(七篇上248)で、「ほど」「程度」の義。
後漢末の『釋名』では「科 課也 課其不如法者罪責之也」(巻六 釋典藝第二十・24)だから「法に従わない者に罪責を課す」あたりで、「罰などを割り当てる」の義。三国魏代の『廣雅』でこれに関連するのは「科 條也」(巻五上 釋言・124)で、「條目」「條文」の義。
また『説文』で「殘」は「殘 賊也」(四篇下059)、「賊」は「賊 敗也 从戈 則聲」(十二篇下265)だから、「損なふ」「滅ぼす」「悪者」などの義である。念のために『玉篇』を引いておくと、「殘 昨安切 賊義也 惡也」(歹部一百五十)であり、碑文の時代にも適用できるだろう。遡って私は、『魏書』東夷傳辰韓条に「賊爲冦」とあるのが印象に残っている。好太王碑文では、次の七例。
1 「百殘新羅 舊是屬民 由來朝貢」(五年条)
2 「而倭以辛卯年來渡海 破百殘」(五年条)
3 「以六年丙申 王躬率水軍 討科殘國」(六年条)
4 「百殘王困逼 獻出男女生口一千人 細布千匹 歸王自誓 從今以後 永爲奴客」(六年条)
5 「將殘王弟并大臣十人」(六年条)
6 「九年己亥 百殘違誓 與倭和通」(九年条)
7 「百殘南居韓國烟一 看烟五」
3、5を除く全ての用例で「百濟」が「百殘」となっている。5の「殘王弟」も、「百殘王弟」と解して間違いあるまい。これらが高句麗を王者とする大義名分論に立っていることは言うまでもない。更に六年条では「屬民」でありながら高句麗の法に従わないので「科殘國」(3)と表したことになる。
これらは高句麗の正面が中国北朝であるとしても、背後の百済が旧帯方郡に蕃居して強敵であったために、百済を「百殘」「科殘國」と呼んだことにならないか。これに対し「扶餘」「新羅」は通常の文字遣いである。私は、この点が倭を「倭賊」「倭寇」と呼ぶことに関連すると考えている。