好太王碑文(9) -辛卯年条の通読-
この段階で辛卯年条を通読するのは早計の観を免れまいが、欠字を補うことが本旨の一つであるから、問題点を整理する意味で敢えて試みたい。
これまでの経緯から「破百殘□□□羅」を「破百殘而潰新羅」と読むと、
「百殘新羅 舊是屬民 由來朝貢 而倭以辛卯年來渡海 破百殘而潰新羅 以爲臣民」
となる。改めて文章を眺めてみよう。後者の「而」は、「更」「又」なども考えられるから、更にじっくり検討してみる価値がある。
1、「百殘」は新羅と並列されているので百済と解され、高句麗の大義名分論による表記である。
2、「屬民」もやはり大義名分論による定義で、百殘王・新羅安錦の書き方から、実体は別にして百済・新羅を対等な国家と認めていないことになる。
1及び2は辛卯年条の前に置かれた条件文であり、この条全体が百済・新羅・倭に関する記事になっている。何の前提もなしに、これに「加羅」などを加えるのはやや唐突ではなかろうか。また碑文(6)などから、百済・新羅は、それぞれ百済国、新羅国と解せる。
3、「而倭以辛卯年來渡海」は、文脈及び用例から、「來」の主語は「倭」であり「來渡-海」とも読める。ただし、「以辛卯年來」を「辛卯年以來」とは読みにくい。「辛卯年」は391年である。『三國史記』との齟齬については、いずれ言及できるかもしれない。
4、「破」「潰」「爲」の主語もやはり「倭」である。この場合の「倭」は「倭國」であって、好太王が自ら対応したことからも、相当な規模で韓半島へ出兵したと考えられる。
5、「臣民」は「倭の臣民」と解せるが、あくまで高句麗の定義であって、倭国が長期にわたって両国を実効支配していたとは限らない。
以上から、
「百済・新羅は旧より属民、由来朝貢す。而して倭が辛卯年(391年)を以て海を渡り来たり、百済を破りて新羅を潰し、以て臣民と為す」
となる。
もとより欠字のある文を解釈することは不可能に近い。敢えて訳をこころみたのは、私にとっても、古代通史に欠かせない史料だからである。