芸術とスポーツ
いつか書いたように私は碁を打つ。いや打っていたと言うべきかもしれない。田舎に住んでいると好敵手が少ない上に、いつも打っていた碁仇が亡くなってしまったから、ここ数年は殆ど実戦していない。
プロの碁も日曜日の囲碁対局を欠かさず見ているものの、国際大会でここ数年日本が中国や韓国の選手に歯が立たない状況を知っている程度である。なぜ成績が悪いのか、私が分かるはずもない。
ただ気になる点が一つある。中国でも韓国でも、囲碁がスポーツと認識されていると言う。これはこれで楽しかろう。碁は二人が対峙するから、さしずめ格闘技に似ている。陸上競技で言えば、持ち時間からして、マイルあたりの中距離競争にあたるのではないか。
とすれば、短期決戦が得意な人は何とか急戦に持ち込もうとするだろうし、戦いを好む人は序盤で力を充分ため中盤で一気に優勢に立とうとするだろう。スポーツだから、当然ながら、第一手から既に勝負手を放っていることになる。途中で「無理」をせず、長期戦に持ち込み、細かなヨセ勝負をしたい人は大変だ。
私は、素人ながら、石の形には気を使う。布石から中盤、ヨセまでをそれぞれ楽しむことにしている。若い時から、それなりに、囲碁に芸術性を感じてきた。芸術であるから絵や彫刻などと同じように、私なりに形の美しさや必然性を感じられるように打つ。
だが熟練したマスターが押したり引いたり互いに大技小技を繰り出し、常に盤面に美しい形を描くなどというのは、あくまで結果であって、贅沢な話である。最初から最後まで勝負一辺倒となれば、とりあえず、こんなことは背景に退いてしまうだろう。むしろこの芸術性なるものが、持ち時間の短い勝負では、弱点になるような気がする。芸術には必ず遊びがあるものだ。極限の勝負では、えてして、これが怯みになってしまう。日本の碁が既に退潮期にあって、芸術性が逃げ場になってしまい、はつらつと格闘技に臨む精神がなかなか生まれてこないのかもしれない。
プロである以上、敗北を続けながら芸術などありえない。こんなことでは、年寄りの僻事と変わらない。勝つために気迫を前面に出して、どきどきしながら、最後の小ヨセまで戦い抜くほかない。勝つことによってしか、芸は生まれないのである。
ひたすら技術を磨くのも、妥協のない戦いで最善手を打つためだろう。だが、いくら巧みな技術を身につけたとしても、闘う精神を養わなければ、スポーツだと定義している相手と戦えない。戦いの中で磨いたものでなければ、どんなにすごい腕前であったとしても、技術は技術に過ぎない。
日本の水準が低いとは思えない。日本の囲碁も、もう一方でこのスポーツ性を取り入れ、従来とは異なる面を展開してもらいたいような気がする。