『説文』入門(47) -俳諧-

今回は肩の荷を軽くして、「俳諧」の「俳」について触れてみたいと思う。かつて芭蕉は「吾はただ俳を用ゐん」と云ったそうで、覚悟のほどが伺えそうだが、「誹諧」とも表記され一定しない時代があった。
「俳」は「俳諧」のほか、「俳優」「俳佪」などに用例がある。『説文』で「俳」は「俳 戲也 从人 非聲」(八篇上192)で、段玉裁注は「以其戲言之謂之俳 以其音樂言之謂之倡 亦謂之優 其實一物也」である。
『露伴随筆集』下(岩波文庫版)の「俳諧字義」で、露伴は段注を引いて、「その戯をもつてこれを言へば、これを俳と謂ふ、その倡楽をもつてこれを言ふとき、これを倡といひ、またこれを優と謂ふ、その実は二物なり」と訳している。
露伴がどのような版を用いたのか不明であるからあまり先走りもできないが、元気のよい訳だとは言えそうだ。義の「戲也」について『急就篇』の顔師古注を引いた点は参考になるし、『廣韻』音から「歩皆切」とする点もよく勉強している。
ただ、「倡楽」と訳するのは段注が「音樂」であるし、「その実は二物なり」は「其實一物也」である。前者は「倡 樂也 从人 昌聲」(八篇上191)だから左程でないとしても、後者は「優 饒也 从人 憂聲 一曰倡也」(八篇上142)だから、「その実は二物なり」には問題があるだろう。
私は、前後関係から、それぞれ「音樂」「其實一物也」をそのまま採用しても何ら問題はないと解している。とすれば、「倡楽」は露伴一流の訳ということになるかもしれない。
これに対し『説文』で「誹」は「誹 謗也 从言 非聲」(三篇上174)である。段注の「誹之言非也 言非其實」は鋭い指摘であり、露伴もまた「声本より近く、義全く同じきなり。誹は後出の字、その言なるのゆゑを以て言に従ふ。初はけだし一非字のみなりしなり」と喝破している。
字形の由来や音からすれば「俳」「誹」は仮借で通用したと解してよさそうだ。「誹」の用例が隋唐以後で確かであるのに対し、「俳」の字形を使うものは多くないようだ。
ただ『史記』滑稽列傳第六十六「復作故事滑稽」の「索隱」に「楚詞云 將突梯滑稽 如脂如韋 (中略) 又姚察云 滑稽猶俳諧也 滑讀如字 稽音計也 言諧語滑利 其知計疾出 故云滑稽」とあるのが気になっている。『説文』の定義のみならず、上の用例からも、「俳諧」を択んだ芭蕉に敬意を表したい。

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