持衰(上)
テーマを見ただけで何のことかわかる人は、古代史に相当通じている人と言ってよかろう。「翰海」(上)(下)でおおまかではあるが、倭人が「對馬國」から「一大國」へ渡る海を「瀚海」と名づけ、これが十分漢語を理解した命名であることを示した。
また「翰海」(上)では、倭人が自ら「持衰」と名づけている用例も見てもらった。これもまた漢語をしっかり理解している例だと推定できる。『三國志』倭人条では、次のように記されている。
「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹」
私が下手な訳をするまでもない文章である。「恆」は「恒」で「つねに」、「梳」は「櫛をいれる」、「蟣蝨」は「蚤、しらみの類」と考えればよかろう。
陳寿が殊更このような船上の慣習を記しているのは、中国では珍しく、倭人に独特の文化だと認識していたからではなかろうか。だからと言って、彼が中国の文化を隅々に至るまで、少数者の習慣に至るまで知っていたとは限らない点を確認しておく。
ここで考えたいのは、倭人自身がこの習慣を「持衰」と名づけた点である。彼が「如喪人」と例えているように、この「衰」は死者を弔い、喪に服している義を連想させる。
『説文』で「衰」は「衰 艸雨衣 从衣 象形」(八篇上392)とされ、衣部の象形字である。「雨衣」が雨具でよければ、草でできた雨具の解となる。だがこれだけでは、死者や喪に関連する義は出てこない。
そこで他の史料を幾つか調べてみると、『禮記』や『史記』などで「衰」が「縗」の義で使われていることが分かる。
これは私の一人よがりというわけでもなくて、『釋名』では「三日不生生者成服曰縗 縗 摧也 言傷摧也」(巻八 釋喪制第二十七・36)だが、先謙注に「經典多省作衰衣」とあるし、『廣韻』にも「縗 喪衣 長六寸傳四尺 亦作衰」(上平聲巻一 灰十五)とある。
そこで『説文』で「縗」をあたってみると、徐鉉、徐鍇本ともに「縗 服衣 長六寸 博四寸 直心 从糸 衰聲」、段玉裁本では「縗 喪服衣」(十三篇上232)となっている。許愼は『儀禮』喪服第十一を下敷きにして説いていると思われるので、いずれにしても大差はないだろう。
「長六寸 博四寸 直心」の段注でも「按縗 經典多叚借衰爲之」とあって、「縗」「衰」が仮借字で使われていることを示している。
以上から、後漢代では多く「縗」の字形が使われていたが、陳寿は古い用法を採用して「衰」を選択したと考えられないか。だとすれば、「持衰」を「持縗」と解することもできよう。