カンニング

日本語では試験でズルをする行為を指す場合が多い。残念ながら、古くて新しい問題である。
私は中学生のころ、カンニングの疑いをかけられたことがある。急激に成績が上がっている時期だったと思う。元々がひどいから、無論、成績が上がったと言ってもたいしたことはない。教師の側から出た疑いのようで、無念であった。これに発奮して、更に勉強したことを憶えている。数十年たった今でも時おり思い出すことがあるので、心の傷が如何に深かったかが分かる。
今年度の大学入試で、携帯電話を使う新手のずるい方法が使われたと云う。発覚直後、直ちに大学側が「偽計業務妨害」とかで刑事告訴した。大学が自力で解決することを諦め、外の力に頼ったことになる。
大学としてはすぐに合否の判定をしなければならず、早急に解決しなければならないだろうから、自治を捨ててでも告訴したことはそれなりに理解できないこともない。又告訴によって、不正を許さないという強い決意を社会に向けて発信しているのであれば、評価されてしかるべきかもしれない。幸い合格発表の前に当事者が見つかったようなので、関係者の努力を素直に評価したい。
こうなった上は、その方法をすっかり明らかにし、同様の不正が起こらないよう対処せねばなるまい。教育に平等などありえないとしても、機会は公平でなければならない。
だとしても、あくまで試験監督は受験者がベストを出せるように配慮することが第一義である。教育には互いの信頼関係が不可欠だ。来年度以降に、過剰な対応策がとられないよう願っている。
せこいことをする人間は、私を含め、古今東西跡を絶たない。が、如何なる理由があろうと、学問を目指す人間が不正な手段で出発することは似つかわしくない。一人前になるにつれて、ルールに従うことが多くは自由に生きる最良の方法であることに気づいていくものなのかもしれない。
刑事事件としてどのような結末になるのか分からない。例え刑事罰があるとしても、まずは当人が深く戒めて、今後もひたすら勉学に励むことを望んでいる。心に刻まれた傷は人間性を壊してしまうこともあるが、たいていは人の奥行きを増すことに繋がる。
学校教育に携わる者のみならず、多くの人が若者をバックアップしていると感じとってもらいたい。再起を期待している。

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