高名の木登りといひし男

自分の身の丈を超えた文を書くとなると、準備が大変だし、どうしても文章に思わぬ隙間ができてしまう。寸分違わぬ自分を書くというのも、生き物であるから、これまた難しい。結局のところ、思いついたことを書くほかない。
今回はどういうテーマにしようか迷った末、『徒然草』第百九段にある題をそのまま採用した。これは私も好きな話で、ご存知の方も多いに違いないが、ここであらすじを紹介しておく。
至極簡単だ。弟子を木に登らせて、危ないところでは何も言わず、軒先まで降りてきた時に「あやまちすな、心して降りよ」と言葉をかけた。ただそれだけである。
なぜ私がこの話を好きなのかは、実のところ、自分でもよく分からない。ただ私は若いときから、この木登り名人が誠に賢明な人物で、尊敬に値すると考えてきた。
危険な場所にいれば誰でも気をつけるものだ。こんな時に「気をつけろ」と言う必要はない。そんなことをすれば、当事者は身を硬くしてしまい、逆効果になることもある。
往々にして、人はもうここまで来れば大丈夫と感じた時がかえって危ない。「気をつけろ」と言うならば、まさにこういう時だろう。彼は全体を見渡し、状況を見極めて言葉を発していることになる。
私はこの話を「知識」と「知恵」の違いとして理解してきた。この木登り名人を知恵のある人物だと考えてきたわけだ。若いときから、知識というものは現場で生かされている限りで役にたつが、一般にそれとしては殆んど価値がないように考えてきた。
また少し観点を変えてみると、全身全霊でことにあたっている人に「頑張れ」というのも酷だろう。こういう場合はふつう、「お疲れさま。少し休みなさい」と言うのではないか。もうこれ以上頑張ってはいけない時があるものだ。
命が長いのか短いのかよく知らない。絶対の時間で測れば、割合長いのも短いのもある。が、その中身や満足度を考慮に入れれば、はっきりしなくなる。
昨日を生きてまた今日も生きているという意味からすれば、人生は長期戦だろう。私は四六時中注意して生きるとか、頑張って何かをやり遂げるなどということが苦手で、できれば必要な時だけ少しばかり気合を入れるようにしてきた。
人の賢明さは知識の広さや深さでは計れない。ことにあたって熟練しており、誤りを経験として反芻し、困難に際して果断であることが賢明なのである。まさに愚かな私の対極にある。ここを踏ん張り時と考える人こそが、うまく休息をとるよう願っている。

前の記事

東日本大震災

次の記事

タンカー