上天気

本日は晴天である。秋空ながら、少し湿気が残っており、さわやかというよりは残暑を感じる。昨日も今日も蝉が鳴いているが、鳴き声だけでは元気なのか盛時の名残りなのか分からない。
私は毎週日曜日の午後に欠かさず競馬中継を見ている。従って「秋天」と言えば「秋の天皇賞」を思い浮かべてしまい、言葉遣いにやや制約がある。この場合は、青く透き通った秋の天空である。
数日前、空を見上げると、鰯雲が狭い空を覆っていた。まだ夏の雲が出ていることもある。が、本日はどこにも雲がない。このような時、私はどうしても「上天気」という言葉を思い浮かべてしまう。今まで何回も自分をたしなめて使わないようにしてきたが、また脳裏に浮かんでしまう。今回は、この葛藤を書こうと思う。
さすがに中国は言葉の国で、古来より四季の空にそれぞれ名がついている。春夏については二説ある。『爾雅』釋天及び『釋名』では春が蒼天、夏が昊天(こうてん)なのに対し、『説文』は春が昊天、夏が蒼天で逆になっている。『説文』で「昊」は見慣れない「昦」(十篇下085)の字形になっているので注意したい。
ところが秋冬は、秋が旻天(びんてん)、冬が上天とされて異説がないから言い訳ができない。
どうやら私の頭の中では、一年中、殆ど雲がないほど晴れている時に「上天気」という言葉が浮かぶようインプットされているようだ。「上天気」は「上-天気」と「上天-気」の二様に解釈できる。前者のように「上々の天気」と解せれば、年中使えるわけだから、今までの用語で間違いがなかったことになる。だが後者の場合、「上天」が冬の晴れ上がった空であり、秋の空に使うのは気がひける。
用例をたくさん集めたわけではないが、私は「上天-気」の解が先にあったように感じている。
かようなわけで、空を見上げるたびに、「上天気」という句を使うかどうか躊躇するのである。つまり本来の義と、おそらくは時代の移り変わりによって次第に変わってきた義のいずれを採用するかという選択をせまられているわけだ。
だがこんな悩みも、澄み渡った爽やかな秋空のもとでは、ささいなことである。まったく脳天気なものだなあ。賢明な皆さんはおおらかに使い分けておられるでしょう。
ついでに言うと、秋の天皇賞がよい馬場でフェアに行われ、新たな伝説が生まれることを望んでいる。