方言と歴史学(7) -北から南から-
仮説に仮説を重ねる危うさは十分承知の上であるが、限られた史料から新たな知見を得るには、試行錯誤を繰り返すほかないこともまた確かだろう。
前回、郡上では中世史料から四つ仮名と二つ仮名が併用されている可能性を指摘した。仮に「くず」「くづ」が使われていたとしても、「じ」「ぢ」に言及していないから、ここで三つ仮名に触れないわけにはいかない。
既に白山奥院というシリーズで、越前馬場である平泉寺白山神社の「越南知」が「おなんじ」と伝承されており、美濃馬場である長滝寺白山神社では「越南智」の字形で「おなんぢ」であった。
「知」「智」は、漢語音としても仮名音としてもほぼ同音で、「ち」「ぢ」と考えてよい。とすれば神名の「知」という字形を「じ」と読むので、越前では、相当前に四つ仮名から三つ仮名ないし二つ仮名へ移行してきたと推測できる。
これに対し長滝寺白山神社では表記通り「智」が「ぢ」と伝承されており、郡上では「じ」「ぢ」が使い分けられていただろう。
これに加え、「くず」「くづ」が共に使われていたとすると、郡上では「ず」「づ」及び「じ」「ぢ」がそれぞれ使い分けられていたことになる。これらから郡上では三つ仮名でなく、少なくとも白山信仰が伝わってから近世にいたるまで、長く四つ仮名が使われていたと解したい。
仮に四つ仮名圏という範囲を設定できるとすれば、長滝白山神社の「越南智(おなんぢ)」が越前からで郡上の北方にあたり、「國津」「九頭」もまた北方からの影響下にあったことになろう。他方、「栗栖」「栗巣」が二つ仮名によるとすれば、南方からの影響による命名となる。
南方からの要素として、すでに「神の御杖杉」(2011、10、03日付)というテーマで、熊野信仰を取り上げてきた。まだ杉原の熊野神社も若宮八幡神社もお参りしていないのに先走るのもどうかとは思うが、前者は「白山神社別宮杉原熊野神社」とすれば白山神社の「別宮」だから、原形が白山神社だった可能性がある。後者もまた三所明神の形式が白山神社の三神を彷彿とさせるし、現に三神の中に白山神が祀られている。
両社ともに郡上の南限に近くもっとも武儀郡の影響を受けやすい地にあるにもかかわらず白山信仰の痕跡がみられるとすれば、四つ仮名圏の白山信仰が先に広がり、二つ仮名がのちに展開したとは考えられないか。