極南界(6) -西北界から-

前回は緩やかに繋がっていたと思われる「倭國」の東北界を考えてみた。今回は、西北界の「拘邪韓國」から更に北を探っていきたい。
なるほど『後漢書』倭条の「極南界」を定義するのに、何の断りもなく別系統の史料を使うことは反則である。とは言え、武寧王の買地券発見以来、『三國史記』の史料価値が上がっている。何せ殆ど史料の無い時代であり、使えそうな史料はみな試みる価値がある。
『新羅本紀』の年代がそのまま使えるかどうかは今後も検討せねばならないとしても、この時期の倭人に関して伝承されている点を無視できまい。批判は甘んじて受けるとして、一応これを列挙してみる。
『新羅本紀』には早くも始祖の赫居世居西干八年(紀元前50年)条に「倭人行兵 欲犯邊 聞始祖有神德 乃還」という記事がある。これ以後、後漢代だけでも「倭人」に関する記事が十例ほどある。
01 「倭人行兵 欲犯邊 聞始祖有神德 乃還」(赫居世居西干八年条)
02 「瓠公者未詳其族姓 本倭人 初以瓠繫腰 度海而來 故稱瓠公」(赫居世居西干三十八年)
03 「倭人遣兵船百餘艘 掠海邊民戸 發六部勁兵以禦之」(南解次次雄十一年(14年))
04 「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」(脱解尼師今前紀)
05 「與倭國結好交聘」(脱解尼師今三年(59年)春三月)
06 「倭人侵木出島」(脱解尼師今十七年(73年))
07 「倭人侵東邊」(祇摩尼師今十年(121年)夏四月)
08 「都人訛言 倭兵大來 爭遁山谷 王命伊飡翌宗等諭止之」(祇摩尼師今十一年(122年)夏四月)
09 「與倭國講和」(祇摩尼師今十二年(123年)春三月)
10 「倭人來聘」(阿達羅尼師今五年(158年)春三月)
11 「倭女王卑彌乎遣使來聘」(阿達羅尼師今二十年(173年)夏五月)
12 「倭人大饑 來求食者千餘人」(伐休尼師今十年(193年)夏六月)
いずれにしても「倭人」「倭國」の影響が強いことを示している。今回は抜粋を優先し、それぞれの解はいずれ機会があればということで勘弁していただきたい。
ただ一つ脱解尼師今の前紀(04)を取り上げるのみ。前紀は「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」から、王となるまでの経緯を記している。私はこの「多婆那國」の「倭國東北一千里」にあったという点がまた、倭国の北方が東西に展開している状況を傍証しているような気がする。