島谷用水(3) -どんどん橋-

なるべく早く切り上げたいのに、どうも蜘蛛の巣にかかったようで、テーマから抜け出せない。全体像を描けるか不安になってきた。まずは宿題から片づけなければならない。乙姫川は立町で分流し、やはり、一部は橋本町で用水と合流していた。
今回は、寛文年間の絵図通り、江戸時代には乙姫川本流が島谷用水に合流していた可能性を探ってみたい。すでに書いたように現在は分流されており、乙姫川は用水の下を潜っている。
但し、現在の用水は井川から旧庁舎の前で吉田川寄りに流路が曲げられている。少なくとも明治時代までは、井川を経て直に橋本町から新町へ流れていたと思われる。街中だからか用水の上は板で覆いがされており、その上を歩くと「どんどん」と音がするので「どんどん橋」ないし「どんど橋」と呼ばれたそうだ。現在では、大垣共立前の小さな橋にその名残りをとどめる。
井川と乙姫川を目分量で見ているだけだから確信はないけれども、この旧流路であれば、両者にそれほど高低差がないのではないか。とすれば合流していた可能性が高くなるわけだ。
だが、小なりと雖も自然河川を用水へ合流させるとなるといろいろ問題が出てくる。用水がいわば島谷川とも言える構造になってしまい、洪水の際には、容量がとても足りないのではないかという疑問がわく。
乙姫川は、かつてその一部が名広川とも呼ばれていたが、東殿山を背景に結構広い流域面積がある。一帯が石灰岩の多いところなので地下に落ちる水量を考慮に入れても、集中豪雨では、一気に狭い流路を流れ下ることになる。
ところが江戸前期からみても、この名広川に関する洪水の記録があまり見当たらない。無論、記録がないことと洪水がなかったことは峻別すべきだが、それなりに山林の経営が順調だったと解釈できないこともない。
八幡には、やはり東殿山系から、武洞川という渓流が流れ出ている。明治二十六年(1893年)に慈恩寺山が崩落した際にはどうだったか分からないが、同二十九年(1896年)の水害では名広川や赤谷川と共に武洞川もあふれたと記録されている。この武洞川が現在でも直接島谷用水に合流している。
犬啼(いんなき)川及び赤谷川は不明としても、私は乙姫川もまた武洞川と同様に、地図通り用水と直接合流していたのではないかと推察している。分流には相当な技術が求められるし、かつまた防火ならびに農業用水などとして末端まで十分な水を送る必要があるので、通常の状態であれば水量に不安があったというような事情が考えられる。