任那日本府(6) -「秦韓」-

宋朝が倭王武に除正した六国のうち、ここまで『好太王碑文』から任那・加羅を、張庚の『職貢圖卷』から新羅をそれぞれ倭国の勢力圏とすることを明らかにし、また武の上表文にある「九十五國」と音韻から馬韓五十五国もほぼ倭国の勢力下にあったとし「慕韓」が実在したと考えた。
今回は「秦韓」を取り上げる。ここまでの過程からしても、「六國諸軍事」の倭国を含む六国には「倭國王に属する」実体があり、「秦韓」のみが架空であったとは考えにくい。それはそれとして、慌てずに考えてみよう。「秦韓」は史書で取り上げられており、なじみがある。
1「其名國爲邦 弓爲弧 賊爲寇 行酒爲行觴 相呼爲徒 有似秦語 故或名之爲秦韓」(『後漢書』辰韓条)
2「名樂浪人爲阿殘 東方人名我爲阿 謂樂浪人本其殘餘人 今有名之爲秦韓者」(『三國志』魏書辰韓条)
3「言語有類秦人 由是或謂之爲秦韓」(『晉書』辰韓条)
いずれも、言語が秦人と似ることから「辰韓」をまた「秦韓」と名付けるとするあたりで共通している。中でも『三國志』魏書は興味深く、「阿」という用語から、「秦韓」を「樂浪」と関連付けている。
これらの情報源が『三國志』魏書などであって、同一の情報を繰り返し使っているだけとも解せるが、他方で「辰韓」が「秦韓」とも名づけられていることを長く伝承していたとも考えられる。
かくのごとく「秦韓」は諸書の認めた語であり、継続して使われてきたと考えてよい。『宋書』もまたこれらの文脈上で用いているのであって、「秦韓」を実体を伴う語であると看做していることに間違いあるまい。同書の史料価値から考えて、これを否定するのは難しい。
また『説文』入門(62)でみたように、「秦」「辰」は声母が異なっているとしても、ほぼ同韻と考えてよく疊韻で同部仮借であった。義としても、辰韓が継続して「秦語」「秦人」などと関連が深いと考えられてきており、「秦韓」としても違和感はあるまい。
それではなぜ『宋書』は「辰韓」ではなく「秦韓」を採用したのだろう。別名を用いたことになるから、主として次の三つの場合が考えられる。
1 かつての「辰韓」は、五世紀の段階では、それとして存在していない。
2 「弁辰」の用語から、「弁韓」を包含した概念になっている可能性がある。
3 倭国の辰韓に対する一定の力を認めつつ、高句麗や百済の影響力を考慮した。
以上、当然ながら「詔除武使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」の號には全て実体があったことになる。

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