島谷用水(5) -水質改善-

今回は視点を変えて、水質から迫ってみたい。造成以來の懸案で、形を変えて繰り返し登場してきただろう。
江戸時代に武洞川や乙姫川が用水に合流していたとすれば、これらの両岸から生活雑排水が流れ込んでいたことは間違いあるまい。とは言え、山を抜けて町に入ってもこれらの両岸は殆ど田畑だったようで、影響は少なかったはずである。ただ塩屋町や新町の側溝から用水に合流する場合は問題がありそうだが、水量が確保されていれば、当時の人口から考えて、さほど汚れていたとは考えにくい。
しかし私は、用水の漏れから、充分な水量を確保することが難しかったと推測している。仮に三面からの漏水がさほどでないとしても、砂や泥などの堆積は避けられまい。こう言った人工の施設は、造成することのみならず、維持にも労力を必要とするものだ。川掃除を頻繁にやらなければ、川底が上がってしまい、流量が減ってしまっただろう。
すでに触れてきたように、現在では、赤谷川及び乙姫川は用水の下を潜っており、雑排水の混じった水が用水に入り込むことはない。但し、上愛宕だけではなく赤谷及び乙姫の両河川の中間にあたる朝日町及び常盤町の側溝からも雨水と共に雑排水が用水に流れ込んでおり、新町筋でも同様だったと思われる。
整備された時期を知らないが、八幡小学校の東側を直に北へ向かう側溝は用水の下へ潜っているし、南側及び西側を巡っている側溝は用水上を交差して本流へ流れ込んでいる。これらは、構造上から、小学校建設に関わる工事だったかもしれない。
ところで用水を少しばかり分流し、赤ん坊のオムツなどを洗う場所を確保してきたことを御存知だろうか。私の知る限り愛宕町の下と井川の二か所ある。無論、今では使われていないが、その痕跡は残っている。下流にも、幾つかあったのではなかろうか。上水は井戸からくみ上げるとしても、下流にあたる橋本町や新町などでは用水を生活用水としても使っており、当然と言えば当然の配慮だろう。これは、汚物が用水に流れ込まないよう工夫されたものである。前者は直接吉田川本流へ、後者は赤谷からやはり本流へ導いている。これらがいつ頃設置されたのか知らないけれども、如何に用水が生活に密着していたかが分かる。かつて腸チフスやコレラなどの伝染病が心配される状況だっただろう。一旦発生すると、大変なことになる。
明治以後山林経営に誤算があったからか、幾度も赤谷川、乙姫川及び武洞川が溢れたようである。用水の流量及び水質を保全するために払ってきた先人の労苦が目に浮かぶ。
幸い近年の下水工事によって、本流だけでなく、用水の水質もかなり改善されてきている。

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