任那日本府(8) -任那十國-
私はこれまで『宋書』倭國条の六国に実体があり、上表文中の「九十五國」を史実としてきた。また馬韓五十五国及び弁辰韓二十四国、加羅六国から、任那が十国であることを析出した。
任那十国については、欽明紀二十三年(562年)春正月条「新羅打滅任那官家」の注に「任那 合十國」の記事を挙げた。今回は、この任那十国の出自について考えてみたいと思う。
倭王武の主張した「九十五國」は馬韓及び弁辰韓の七十九国を前提にしているだろう。更に『三國志』魏書韓条に「韓在帶方南 東西以海爲限 南與倭接」、同弁辰条に「其瀆盧國與倭接界」とあり、馬韓の南辺及び弁辰の周囲には倭人の小国家群があった。これから、加羅六及び任那十の計十六国は韓の勢力が尽きたところに存在したことになる。確かにこの定義が適用される時期があったに違いない。
だが、倭人が優勢な地域だったとしても、韓種を筆頭に様々な勢力が浸透してきたと考えられる。加羅六国は、確かな出自が不明ながら、この地区にできた新たな国家群でなかったか。これに対し任那十国のうち主要なものは、後まで倭人が定着し倭人系小国家の態を保っていたと思われる。
上表文からすれば、五世紀後半には任那十国が存在していただろう。また欽明紀二十三年(562年)条を採用するなら、六世紀後半にもやはり十国前後であった。
それでは、十国全てで倭種が優勢だったのだろうか。すっかり整理できているわけではないが、今のところ、十国の内「加羅國」「安羅國」はそれぞれ伽耶系および弁辰系が多数を占めていたと推測している。残る八国については倭種が中心で、「浦上八國」と関連するかもしれない。これらにも百済や新羅などから植民する例が多かっただろうから、任那の地においても倭人が単なる先住民となっていく過程にあったのではないか。
ここで振り返っていただきたい。任那・加羅を含む九十五国は「倭國王」に属するのであって、日本国ではない。
1 繼體紀「三年(509年)春二月 遣使于百濟 括出在任那日本縣邑百濟百姓浮逃絶貫三四世者並遷百濟附貫也」
2 繼體紀「六年(512年)冬十二月 百濟遣使貢調 別表請任那國上哆唎 下哆唎 娑陀 牟婁四縣 哆唎國守穗積臣押山奏曰 此四縣近連百濟 遠隔日本」
1の「遣使于百濟」注に「百濟本記云 久羅麻致支彌從日本來 未詳」とあり、すでに任那と「日本」との関連が説かれている。
任那・加羅の地はかつて馬韓及び弁辰韓と接する倭種が主たる勢力だった。日本国が実際に関連していたのはこれらに限られていたのではないか。