瓢岳(6) -粥川村(上)-

私にとって本日のテーマは重い。前回は瓢岳に禅定峯という別号があり、これが旧名ではないかと推定した。瓢岳の北方を中心に主要な地名が変わっている中で、今回は粥川村を取り上げ、地名変更にどれほどの実体があるのかを探ってみたい。
『那比之郷巖神宮大權現之傳記』(1351年)に「天暦年中」のこととして、「高光此峯平均治給故大谷村改号粥川村」とある。漢文とは言えないまでも、しっかりした文章である。
「高光此の峯を平均に治め給ふ故に大谷村を改め粥川村と号す」あたりに読めるだろうか。これでよければ、「大谷村」を改め「粥川村」と号したことになる。この記述は『古傳記』に基づいており、あくまで伝承だから、そのまま史実とみることは難しい。だが私は、以下の理由で、天暦年中まで遡れると考えている。
1 高光を武人とする伝承には疑問があるとしても、新宮や本宮と合わせ、瓢岳以北の主要な地名が変わることは尋常でない。相反する勢力を想定できれば、行政権の交代など、何らかの矛盾があったとも解せる。
母野ないし木尾から片知山-南岳-瓢岳-高賀山の稜線がかつて武儀と郡上の境界であった時期も考えられるが、名号変更はこれに異変があったことを示すのではないか。この点は、「那比村」の新宮を取り上げる際に言及する予定である。宗教上のみならず、政治上の軋轢が考えられる。
2 粥川にある星宮神社の宝物「紙本墨書大般若經」を取り上げたい。大般若経は現在17卷残っており、奥書に天暦七年(953年)、長寬二年(1164年)、明德元年(1390年)などと記されているものがある。
このうち卷第百十三卷の残卷に「天暦七年 錦村主實貫 願經」の署名があり、国の重要文化財になっている。
最古の残卷が粥川で書写されてそのまま残されたとは限らないが、写経の系譜からして、この時期に瓢岳信仰があり、星宮神社と一体の寺があった可能性が高いだろう。
3 既に方言と歴史学シリーズ(6)で『文德實録』に「齊衡二年閏四月巳卯朔丁酉 分美濃國多藝武義兩郡爲多藝石津武義群上凡四郡」とあることを引用している。これは郡上を語るに欠かせない史料で、この「群上郡」は郡上史の根幹となる記事である。
私は、この「郡上」を「武儀郡の上」と解している。とすれば、武儀の方からみた地名であって、郡上の人には何か腑に落ちないものがある。郡上という地名自身がこの時代に作られたのではなかろうか。
以上私は、齊衡二年(855年)の郡上郡設置及び古写経から、天暦の改名に実体があったと考えたい。今回は、欲張らずに、この辺りで止めておく。歴史学の水準に迫れましたかどうか。

前の記事

山行

次の記事

色気