瓢岳(13) -那比本宮(下)-

情報が少ないからと言って、本宮が重要なことに変わりない。サイエンスなら試行錯誤は避けられないし、誤りを恐れては新たな仮説は生まれない。今回は、改名される以前の名とされる「藤谷」を取り上げる。
『粥川山虚空蔵菩薩縁起』という史料で、「養老二年、社宮から十餘町奥山の中腹から一日中飯が湧き出たので、ここを飯の平といい、同じ社宮から廿餘町下の山の峯から白粥が一日中流れ出たので、ここを粥坂といい、その辺りを大粥と名づけ、藤谷を改めて粥川というようになった」とあり、藤谷を改めて粥川とになったと記されている。誤伝とは言えまい。
他方、『巖神宮大權現之傳記』では大谷村が粥川村に改名されていた。だからと言って、必ずしも双方が矛盾するというわけでもない。つまり藤谷から改名された小地名の粥川を大地名である村名まで格上げとなったと解することもできる。この場合、大谷村藤谷から大谷村粥川へ、大谷村粥川から粥川村へ改号されたことになる。
とすれば、やはり本宮が藤谷から改号されているから、藤谷が共通していたことになる。これを地理上で見ると、宮洞谷から粥川上流まで同名となり、何らかの境界線を表していた可能性がある。
この点、宇留良のタラガ谷と加部へ下る谷が同名であることに関連しないか。これは両者がタラガ峠を介しており、タラガ越えと呼ばれている。やはり何らかの境界線があった痕跡ではなかろうか。
既に「六社権現七谷戸」については触れてきたが、加部にも谷戸がある。他の谷戸にはそれぞれ権現が控えているにもかかわらず、加部のそれには垂迹した神も本地の伝承もない。これでよければ、加部には権現を持たない谷戸があったことになり、相当遡れる可能性がある。
これはタラガ谷-タラガ峠-タラガ谷という線が、高賀六社に収斂される以前のそれであり、聖域と俗界ないし行政間の境界などの意味を持っていたからではないか。峠から宇留良へ下る道中で白山が見える場所がある。
同様に藤谷が境界を示しているとすれば、新宮はこの境外にあったことになる。熊野三社になぞらえて新宮、本宮、飛瀧権現にしたのであれば新たなルールによる命名となるが、他方で新宮は藤谷の外に新たに宮を造営したものとも解せそうだ。
私は、藤谷の「谷」が粥川の「川」に改名されたことを重視している。これは「大谷村」から「粥川村」へ改号されたことにも通じる。これはまた、この辺りの高い峯を「岳」「嶽」などと呼ぶのに対し、高賀山では「山」を使うことに共通するテーマだと考えている。根底に異なる用語法があるだろう。
以上、タラガ谷および藤谷が境界だとすれば、那比における熊野信仰以前の姿を映しているのではあるまいか。

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