餅まき

きのう、小野にある農協で「菓子まき」があった。我が家は、私と孫の二人が出かけた。つい最近まで餅まきだったのに、どうやら鞍替えしたらしい。
餅まきはまた「餅なげ」とか「餅ひろい」などと呼ばれる。記憶をたどれば、子供の頃、餅まきと言ったかなあ。新築の建前などで、屋根の上から餅まきをしている図が残っている。紅白の餅だったかどうかは覚えていない。
八幡へ引っ越してからは、餅まきがあっても出かけることはなかった。街のイベントとしてやる時などは、規模が大きすぎて、自分の出番がないように感じてきた。やったことのある人なら分かるだろうが、商品が相当高価なので、大人といえども皆本気である。この種のものは、やや人集めの傾向があって、私はあまり好まない。
ところが、田舎の小さな集落の祭り事で行われる餅まきには心惹かれるものがある。いつだったか、招かれて行ったことがある。人数もほどほどで、どうしても取ってやろうという厚かましさがない。町からやってきた者にも数奇な目を向けないし、みんな楽しそうで、目が笑っている。
うまく商品が当たっても、驚くようなものはない。一等がお供えの酒一升で、まあ話の種になるぐらいである。ところが何と、始めて行った時に一等を当ててしまった。だからと言う訳でもなかろうが、なんだか悪いような気がして、その後しばらく行かなくなったと記憶している。これが心地いい記憶として残っており、孫が餅を拾える歳になると、連れて行きたくなった。
そんなに激しくないので、彼にでも拾える。最初は遠慮して手が出なかったが、見かねたおばさんが餅をくれたりしていた。ところが、ここ一二年は、私より上手なぐらいである。
近ごろなぜ「菓子まき」になったのか分からない。農協の事であるから、もち米に不自由することもなかろうに。確かに餅をついて丸め、当たり番号を書いて袋に詰める作業は手間がかかりそうだ。いかに農協でも、餅の数からして、人手が大変なのかもしれない。あるいは餅の人気が下がり、ハロウィンに合わせて、子供を中心にした行事にしたかったのだろうか。
今回もまた、孫は相当な数の菓子を手に入れて満足気である。私の方は、なぜか頑張る気がせず、一つも拾えなかった。餅が菓子に変わっただけで気位が高くなったり照れが出てくるのも変だが、私としてはやはり「餅まき」に拘りたい。
となれば、そろそろこの辺りで卒業ということになる。しかし孫が行きたいと言えば、むろん連れて行く。私が彼の火をつけたからだ。
コミュニティーの一員である事とよそ者のはざまを生きている者として、餅まきは自らが庶民であることを実感できるありがたい機会になっている。

次の記事

はざこ