実感
はからずも自分が浮き彫りになることがある。これを偶然とするか必然とするか。
師走ともなると、皮膚にあたる空気が冷たい。風は晴れて弱い時なら撫でるように、強い時なら押さえつけるように感じる。繊細な人ならまだしも、私は音が空気を介して伝わっていると感じたことはない。子供の頃、何かの折に糸電話で遊び、糸が震えている映像を覚えている。この振動によって、存外きれいに声が伝わるのが不思議だった。何気なく暮らしていても、はたと気づいた時に実感するものかもしれない。
近ごろ、告別式に参列することがあった。斎場は郊外にあり、我が家からはけっこう距離がある。今までに何回か行ったことがあるが、すべて誰かの車に同乗させてもらっていた。
だが、今回は自転車で式場に行くことになった。うっすらとは状況を呑み込めていたが、さほどのこととは思わず、晴れた日だったので気持ちよく出発した。ところが、実際に走ってみると案外遠い。如何に車が速くて快適かが分かる。
式場に着くと、自転車で来ている人は誰もいない。田舎の事だから乗用車だけではなく軽トラなども駐車していたが、全て車である。なぜかショックを受けた。時間がたつほど印象が強くなっていく。何かしっかりした意味があるような気がしてきた。
一方では、八幡でもすっかり車社会になっていることが分かる。ちょっとした買い物でも、気軽に車を使うという。ならば私の方はどうか。
貧乏であることは重々承知している。が、若い時からそうだし、あまりこれを実感したことはない。私が貧乏を決して悲観しておらず、むしろこれを楽しむことがあると言えば、負け惜しみに聞こえるかもしれない。確かに、たまには車があればよいと思う時もある。中古なら私でも手に入れられるし、免許もあるから、少しばかり練習すればミッションでも運転できそうだ。一念発起さえすれば、車生活もできないわけではない。
だが、どうしても手に入れたいという気が起きてこない。普段は自転車で充分だ。私が車を運転して、誰かを怪我させたくないというのもある。
とすれば、携帯電話すら持っていないことからも、時代に取り残された老人と考えればよいか。確かに浦島太郎になってしまったが、それだけでもなさそうだ。
この「事件」は、少しばかり拘っているだけでも、時間がたてばしっかりその人の個性になってしまうことを示している。いずれ周りの人も「ああ、あの人だったか」と認めるようになるのではないか。
人生観が些細な点に現れることは知っていたが、些細なことが人生観にまで影響するとは知らなかった。偶然ながら、外から自分の姿を見ることができ、どうやって自分らしくなってきたかが実感できたように思う。鮮やかな切り口ではあるが、けっこう重い経験になった。