頑固度
新たな年と言っても特別の感慨はない。じっくり振り返っても、しっかり前を向いても、何も出てこない。この歳になると、むしろ何もないことの方が喜ばしい。皆さんは如何でしょうか。
数年前だったか、頑固爺さんと呼ばれたことがある。その時もなるほどそうだろうと思っていたが、意識から消えたことからすれば、腹には入っていなかったのだろう。ひょんなことで思い出した。
やっとこの歳になって、自覚症状が出てきたのか、いつも意識せざるを得ないのか。私の世代なら多かれ少なかれと言いたいが、頭の柔らかい人も大勢いるから、私が代表するわけにもいかない。少しばかり振り返ってみよう。
子供の時なら、気に入ったことを何度も繰り返し、飽きるまでやり続ける。が、熱が冷めると全く興味を失い、殆ど何のこだわりもなく新たなことに目を向ける。後で大事になることでも一旦は通り過ぎてしまう。
感性の瑞々しい青年期なら、きゅっと本質をつかんだり、全体像の中で眺めたりするので、ちょっとした拘りが生まれてくる。存外これが普遍性を持ち、徐々に積み重なると、個性になっていく。
経験を積んだ大人ともなれば、仕事であれ趣味であれ、自分に合ったものを取捨選択する。自らに正直であればあるほど、周りに好みの物を集めていく。
これを通り過ぎるとどうなるか。何せ生き物であるから、徐々に好みが変わっていくことは避けられない。結局のところ、かつて気に入っていたものでも残骸となってしまい、周りから見ればゴミに取り囲まれていることになる。
私は若いころから物欲に乏しいらしく、拘ってきたものもさほどない。むしろ頑なに物を持たないようにしてきたと言うべきか。されど、崇高な価値を求めて生きているわけでもない。たとえ何かに拘ることがあるとしても、自分の力で出来ることしか視野に入っていない。
本にしても、読んで蔵書するという習慣はなかったので、ジャンルごとに整理するほどは持っていない。脳の中も同じで、洗練された知性などは持ち合わせていない。無芸この上なしである。
あまり衣食住で拘ることもないから、さぞかし自由闊達だろうと思われるかもしれないが、どっこいそういうわけにはいかない。近頃とみに、頑固度が増しているようだ。去年、最も遠くへ出かけたのは美濃市辺りかな。遠出することに興味を失ってきたとすれば、心身ともに退化してきたのは確かだとしても、生きることにすっかり飽きてきたか。いやいや、それほど充実して生きてきたわけでもない。
私の陋習に価値はあるまいし、今年は少しばかり頭をほぐしながら生きてみるか。