高賀山(4) -大日如来の不運(下)-

既に瓢岳シリーズでも、大日信仰について言及してきた。そこでは「大日堂」の本尊が大日如来だったと推定した。また前回はこれを本宮との関連で位置づけた。今回は新宮での痕跡を拾い、大日信仰が六社すべてに共通していたことを示したいが、まさに断片しか残っていない。どうなりますやら。
5 『那比之郷巖神宮大權現之傳記』に「二閒手大日堂宇婆御前宮」とあり、那比の二間手に「大日堂」があったと記されている。鎌倉時代には修験の道に入っていただろう。
星宮からは八王子権現を経由して新宮へ行くコースがあった。また八王子峠へは相生方面から藤巻山の峰伝いに行くルートも考えられている。
新宮から本宮への行程は何通りか考えられる。『傳記』の行文から新宮を出て「大日堂」へお参りしたことは間違いあるまいが、新宮から直接本宮へ行く道がある。私は、この近道が大日堂の零落に関連すると推測している。今大日堂は、路傍の小さな祠の中で、石碑が立つのみである。
寺本から那比川を遡るコースがいつごろから使われているのか特定しにくいが、こちらなら、大日堂から直進して本宮、左へ折れて新宮という「二間手」だったと解釈できないわけでもない。奥山信仰という観点からすれば、これが原形かもしれない。
新宮の谷戸に関連して、大日如来を捨てたので牛が動き始めたという伝承が残っている。要約すると、越前からきた塩鯖の商人が荷を積んで来たものの、ここで牛がどうしても動こうとしない。見回すと仏様があったので、これを那比川に捨てると牛が動き出したという。この場所は仏淵(ほとけがふち)と名付けられている。
如来を川へ投げ込むのだから思い切った話だが、根拠のない話には聞こえない。その激しさからすれば、六社の中で、もっとも冷遇されていると言えそうだ。那比自身が瓢岳の鬼門とされており、ここではまた大日堂が新宮の鬼門になっている。
大日如来は一般に密教で重要な仏陀だから白山信仰との関連だけを見るわけにはいかないとしても、那比に関しては真密の痕跡が見当たらない。
これに関連するのかどうか、新宮西北の谷を渡った所に、もとタヤと称する集落があり、修験者と比丘尼が住んでいたという。天台宗の遺物を埋めた所と云われている。これについては、八百比丘尼が越前から美濃各地へ伝播したとされているので、白山信仰の方からも考えてみなければなるまい。
また新宮の南側には比丘尼岩がある。昔この岩は小さな石だったのに段々大きくなった。この辺りでは、「ひとなり石」と呼ばれる。裏に比丘尼の屋敷跡があったと伝えられている。美並杉原の熊野神社縁起にもまた比丘尼が袋に入れてきた小石が年を経るにつれて大きく育ち、仏に似た巨大な石になったという話があるから、こちらは熊野比丘尼に関連しそうだ。
「宇婆御前宮」については、『郡上八幡町史』(下)で新宮に「ウバドウヤシキ」が、高橋に「ウバガノ」の地名が記録されているのみである。

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