高賀山(12) 牛頭と牛首(中)-

長良川を遡るルートを上保道とすれば、小駄良を経由するのは小駄良道ということになる。私は、両者が歴史上やや異なった経緯をもつと考えている。
市島や川佐(かわさ)から小駄良の印雀(いんじゃく)などを経由して坪谷から神路(かんじ)へ、神路から古路(ふるみち)へ、古路から小間見(こまみ)や大間見(おおまみ)を経由して日枝洞(ひえぼら)から那留(なる)というルートが「白山街道」で、白山信仰の参道として重要だっただろう。坪谷まで、峠越えを避けるのなら、吉田川の出会いから小駄良川を遡って行くルートも考えられる。牛首山を巻くわけだ。坪谷からは幾つか峠越えを避けられないが、アップダウンはそれほどでもなさそうだ。これに対し、上保ルートには手ごわい歩危がある。
小駄良道にある初音三区の大日堂はもともと安楽寺の本堂だったらしい。同寺は天台宗だったようで、文明年間(1469年-1484年)に浄土真宗へ転じ、現在地へ移築されたことになっている。昭和47年2月17日に、木造大日如来座像並びに青銅製の鰐口が旧八幡町の重要文化財に指定された。
この大日如来は、優美な平安文化の特色が出ているとされる。鰐口は江戸中期の作で、寶永二年(1705年)の刻印がある。中桐地区では、今でも毎年持ち回りで大日係りが設けられ給仕しているらしい。
同区には、南宮神社の手前から西北の谷を遡った山頂に稚児権現堂がある。中世、修験者がご神体を背負って中桐の地に現れ「宗知洞(むねちぼら)の森」という所に祀った。ところが大水が出て流されてしまい、その後洞の山頂に御堂を建てたとされている。
安楽寺及び大日堂がほぼ宗知洞と小駄良川の合流点にあることから、那比と同様、大日堂が稚児権現堂と関連するのではあるまいか。とすれば、「宗知」は「胸乳」とも解せることになる。
上保道では、郡上大和の『牧史跡伝承之記録』(『遊悠』会報第18号)によると、
1 近次字近次コワ谷の頂上に牛首の地名がある。
1 元兼の氏神が「八応神様」となっている。
後者は相当零落しているが、「八王子様」が原形であることは間違いあるまい。両者はさほど離れていない。ここでは牛首と八王子信仰が対になっている。この点は高賀山と同様であるが、やや零落している印象がある。
小駄良道ないし上保道はいずれも長良川左岸にあって、白山へ至る道中にあり、牛首が何らかの境界を示している可能性がある。
牛首が牛頭と同義とすれば、かつての白峰村と白川村にそれぞれ牛首という小村があったことが思い浮かぶ。それぞれ白山信仰圏に関連しそうである。牛首の地名は各地にあってこれだけでは結論は出せないが、偶然とは思えない。
とすれば高賀社の牛頭天王もまた、長良川右岸にあって、白山禅定道への起点になっているかもしれない。

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