高賀山(13) -牛頭と牛首(下)-

少しは纏めなければ失礼にあたる。が、この辺りだけでも情報が錯綜し、糸口をみつけることすら容易でない。
少しばかり整理してみると、『山海經』という書物に「牛首之山 有草焉 名曰鬼草 其葉如葵而赤莖 其秀如禾 服之不憂」(卷五 中山經)と記されている。その山には「鬼草」という薬が生えており、これを服せば憂いがなくなるという。また韓半島でも新羅などに薬となる栴檀が自生する山として牛頭もしくは牛首の名のつく山がある。
また、『漢書』列伝七に無実で殺された婦人が恨みを晴らすために大雨を降らすので、太守になった人物が牛を殺して魂を鎮めようとした話が載っている。
薬のみならず、牛をタブーとする点も高賀山の牛頭天王と共通しそうだ。複雑に伝播したようなので、倭国が韓半島に勢力を有していた時代へ遡れる気がしている。
白山信仰に関して言えば、白山の西麓に白峰村があり、白山の登山口として知られている。古くは牛首村と称した。
養老元年(717年)、泰澄大師が白山を開山した時に守護神として牛頭天王と十二神将などを祀った。牛首村の鎮守は八坂神社で、祭神は牛頭天王だった。村名の牛首はこの牛頭を語源にすると伝える。
また泰澄が建立したと伝える薬師堂があり、後に天台宗の無量光院としてこの方面の白山別当を務めていたらしい。実際は、八坂神社の別当だったのではあるまいか。十五世紀、蓮如に帰依して真宗へ転じ、林西寺と称した。
牛首村は牛首18村の中心で、戦国末期はそのうち16村が越前の勝山藩領に属した。残る尾添村、荒谷村は加賀藩領で、両者の間で白山杣取り争論が起こり、寛文八年(1668年)に18村すべて幕府領になってしまった。
勝山では牛首へ向かう道なので牛首道と呼び、牛首村では「大道谷(おおみつだに)往来」と呼んでいたらしい。勝山の平泉寺に越前馬場があったから、一つのルートとして谷峠を経由し白山禅定道へ通ったことになる。残念ながら同村の多くは、昭和五十年(1975年)手取川ダム建設に関連して水没した。
郡上に関わる白山街道は主として三つあったと推察している。高賀山、上保道、小駄良道である。牛頭信仰がそれぞれに関わってきたのは間違いないとしても、上保道及び小駄良道は相当零落しているだろう。和良宮代白山神社に「牛王寶印」の版木があり、室町時代まで遡れるという。私は和良筋を主として小駄良ルートに分類しており、城山を牛首山と呼んだことに関連させている。つまり、城山の牛頭信仰が相当遡れると考えるわけだ。
これらはいずれも、病に苦しむ地元民や巡礼者が治癒を祈願する聖地だった気がする。

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