郡上郡衙(1)

郡上郡衙のことが頭から離れない。と突然言い出しても、何のことか分かる人は少ないかも知れない。武儀郡についてなら、近ごろ弥勒寺官衙遺跡が発掘され、郡衙の中心施設が確認されている。
ならば郡上もまた話題になってもおかしくないが、とんと聞こえてこない。一二仮説を見るも、不安が先に立つ。それならいっそのこと自分の考えをまとめてみる手もありそうだ。
手をこまねいているわけにもいかず、時期尚早は覺悟の上である。私に残された時間もさほど長くあるまいし、ここらあたりで一旦仮説として吐き出してみたい。
資料の乏しい古代を研究するには、しっかり中世史の研究成果を積み重ねることが必要で、これを透かしてその大まかな姿をみるのが常道である。それはそれとして、郡上郡の名義から始めよう。
正倉院文書の御野國戸籍残簡に「郡上里」と記されているものがある。
1 大宝二年籍後嫁出住郡内郡上里戸主云々
2 大宝二年籍郡内郡上里戸主云々
「大宝二年」は西暦702年、「郡内」は武儀郡のことで、「郡上里」はこの武儀郡の中にあって、長良川の上流にある「里」と解されているのではないか。戸令によれば、里は五十戸である。この命名法からすれば、武儀郡衙より北を郡上川などと呼んでいたかもしれない。
郡上郡として分離されたのはこれから百五十年ほど経過した九世紀中ごろである。
九世紀末に編まれた『文德實録』に「齊衡二年閏四月巳卯朔丁酉 分美濃國多藝武儀兩郡爲 多藝 石津 武義 群上凡四郡」の記事がある。
承平年間(931年-938年)に編まれたとされる『和名類聚抄』によると、「郡上郷、安郡郷、和良郷、栗栖郷」の四郷が記録されている。また『延喜式』民部条や『拾芥抄』には「群上」の字形が使われている。
これらからすれば、齊衡二年(855年)四月に郡上郡が設置されたことは間違いあるまいし、少なくとも十世紀あたりまでこれが継続していることは疑いがたい。
これらから、私は「郡上郡衙」が設置されたことは間違いないと考えている。だが郡上郡衙の位置を探ろうとしても、その規模や交通路など不明なことばかりであるから、推測に頼るほかない。
郡衙の位置については、「郡上里」や郡上川からすれば、四郷の中でも「郡上郷」との関連がまず思い浮かぶ。郡上里が郡上郷の根幹となり、また郡上郡の命名根拠になった可能性が高いだろう。

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