還舊居

文学からほど遠い人生である。折に触れて本を読むことがあっても、じっくり味わいつくすというようなことはない。今回もできが悪そうだ。
何年もベッドの脇に置いてある『陶淵明集』をめくっていると、素通りできないところがあった。「還舊居」という詩である。今の境遇に関連するからだろう。私の事であるから、視野が狭く、琴線に触れたところしかみていないかもしれない。
私が訳したところで箸にも棒にもかからないが、まあ次のように読んでみる。
「久しぶりに故郷へ帰ってみると、悲しいことが多い。かつて住んでいた家は変わり果て、周りにいた隣人たちもこの世に遺る者はまれである。少しばかり近所を歩いてみると、記憶が残っているところで立ち止まってしまう。無常の世でも、生きていれば暑い日もあるし寒い日もある。気力が衰えていることもしばらく忘れて、酒を一杯やろう」
まあ、こんな具合である。
今年の正月、久しぶりに帰郷した。身内も多く死に絶え、血縁ある者もすっかり世代が変わっていた。私が年老いていくのだから、やむを得ない。見慣れたものもあるにはあるが、道路すら新しくなっており、道中がはっきりしない。家の周りを歩くだけで、自分が異邦人であるかのように感じてしまう。
現状、初老の域にとどまっているのかどうか。気力について言うと、やりかけの作業が膨大なので、焦りはしても衰えるということはない。
こちらへ引っ越してからでも、顔見知りが随分亡くなった。私もまた一時はここで死ぬ覚悟をしていたが、どうやらそんな贅沢も難しくなってきた。
とは言え、私が凹んでいるわけではない。生来の根無し草だから気ままな人生で、何処へなりとも行ける。老境に至り、やらなければならないことも少なくなってきた。かすかではあるが、ここに落ち着いていることに不思議な感覚をいだくこともある。
ただ、さほど選択肢がない気もする。実際に歳をとってしまうと、当然ながら、やり直す時間もさほど残されていない。となると、酒でも酌み交わして、憂さを忘れたくなるところ。が、近ごろは缶ビールすら飲まない。
なぜ陶潜が故郷に帰る気になったのか知らない。何らかの拠りどころがあったのだろう。さほど長く離れていなかったような気もするが、故郷を安住の地と考えていたのだろうか。
私ならそうはいかない。例え故郷に帰るとしても、やることが山積みだ。幸いまだ体が動くので、できるだけここでもがいてみるつもりだ。何故か分からないが一句。

 春かすみ もがいてみても 夢の中
                        

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