郡上郡衙(6) -栗原郷-

栗原郷について触れてみたい。同郷はまた「栗垣郷」「栗栖郷」「栗巣郷」などとも表記されるが、まず同義と考えてよい。
私は郷名と「保」の命名法から、郡衙が四郷中の郡上郷に置かれたと解している。栗原郷は、上之保にあったとみてよかろうから、郡衙が設置されたとは考えにくい。今回、これと別の観点からアプローチしてみる。
現在では「栗巣」の字形で大字名として使われている。都市部と比べ、ここら辺りではさほど地名が変わらないと考える人が多いかもしれない。ところが、郡上においてもしばしば有為転変があり、時に地名が変わってきた。
大和町も合併に伴う新たな大地名であるし、旧明方村から明宝村へ村名が変わった時には相当揉めたことが記憶に新しい。また近頃旧美並村でも半在から八坂へ変わるなど、字名もこの例にもれない。
だが、これらは殆ど最近のことであって、江戸時代以前まで遡ればさほど多くないと考えている。
栗巣郷にあったと思われる「牧」と言う地名が気になっている。
本来、馬を放牧するところは「圉(ギョ)」で、「牧(ボク)」は牛を放牧するところであった。そんな訳で後漢代ともなると、「牧」は「牛を飼う人」(『説文』三篇下270)という定義になっていく。さらに時代が下ると、牛が外れて、家畜を「飼う、養う」(『廣雅』釋詁・04)などの義に発展する。こうなれば、飼う対象が牛でも馬でも構わない。
本邦における「牧(まき)」は律令制へ遡れる。『和名抄』では「むまき」と読まれている。律令時代では公牧制度が整備され、諸国に牧が設置された。栗巣の牧がこれに遡るのか、或いは東氏が入郡してから設置されたものか分からないので極言は避けるべきだが、郡衙設置に遡る可能性はある。
また、何となしに慶長郷帳などを見ていると、いわゆる上之保筋にあって他にはあまり見られない村名がある。「落部(おちべ)」「名皿部(なさらべ)」「河辺(かべ)」などで、現在では大字名になっている。「河辺」はまた「加部」と表記された。これらは全て少なくとも江戸時代初期まで遡れる。
私はこれらが長良川本流、つまり上之保川に沿っている点に意味があると解している。つまり、栗原郷ないし上之保に集中しているから、根幹地名とみて、語尾につく「部(べ)」が郡衙設置あたりまで遡れると考えたい。「部(べ)」は、律令制以前から使われている語で、九世紀中ごろでは「伴部」「使部」など、すでに制度化されている。
以上、上之保筋の「牧」と「部」を取り上げ、これらが平安時代へ遡れるとみて、郡衙の周辺地域につけられた名称だと考えてみた。中心地なら、統治に関する語や何らかの官位名が残りそうだ。

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