正義

正義は、個人のみならず国家の指針として標榜されることがある。私の人生で言えば、最も縁の薄い語である。どちらにしても、長く付き合うのに必要であるとも言えるし、妨げになることもある。「正」については、以前(2007年1月02日付け)に書いてあるのでご参考まで。
真面目にやれば定義だけでもスペースが足りないので、大まかな枠を設定するだけにとどめておく。日本では古くから儒教の仁義が研究されてきたし、近代ではヨーロッパ哲学で定義されたものも根がつき始めている。仏教にいわゆる正義の概念があるのかないのか知らない。キリスト教とはやや異なるかもしれない。
大上段に構えるよりは、いつものように考えるのが性に合っている。
段注『説文』によれば「義 己之威義也 从我从羊」で、徐鉉『説文』では「威儀」となっているものの、いずれも「我」と「羊」の会意である。ただし「我」につき篆書体で「戌(ジュツ)」に近い字形もある。
「我」はのこぎりの象形字とされる。生贄の羊を厳格な段取りで殺すさまから、作法にかなったふるまいの意味を表す。実際にどのような手順だったのか分からない。
としても私は、王朝や王が交代すれば、その殺し方も少しずつ変わっていくのではないかと考えている。時代を越えて普遍性のある手順があったとは思えない。だからこそ、言葉として「正義」が抽象化されていくのだろう。
従って正義は、人や時代あるいは立場や社会条件によって変質する宿命を負っている。この国では、江戸時代は武力を背景とした朱子学など儒教によるもの、維新後は近代国家を運営するため西洋哲学による概念がそれぞれ中心に座ってきた。
私は曲がりなりにも維新によって日本が近代における法治を始めたと考えている。だが、急激な富国強兵を推し進め、戦争また戦争の時代をくぐり、そして敗戦。
我々は、敗戦から復興する過程で、平和の尊さと法治の大事さを身に染みて実感してきたのではあるまいか。
法は時々の規範や正義の上に立つが、残念ながら、これら自身には頼るべき基準が見当たらない。各人の解釈でいかようにも変わってしまうし、社会の移り変わりに対応できない。だからこそ、法は契約を根幹とするほかないのだ。
『説文』で「我」につくるから、少なくとも漢代では、自己に関わる語だと解釈されていただろう。「羊」を善なるものとして、「羊」「我」の会意とすれば、「自分が正しい」「自分にとって善い」という私義を内包している気がする。
してみると、自分に正義があって相手にはないというのは語義に反する。自分に正義があれば相手にも正義があるわけだ。互いの正しさを認めることで約束事ができる。
紙一重で、やっと日本の近代はここまでたどり着いた。

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