露結爲霜

すっかり秋である。紅葉が始まっており、あちこちから情報が入ってくる。この時期、高い峠なら雪を冠っていてもおかしくない。まだ八幡の街中では霜が降りたという話は聞かないが、それでもすっかり冷え込んで、露を結んでいることが多い。我が家の庭は日当たりがよくないからか、朝になると、凛とした露を見ることがある。
「露結爲霜」は『千字文』に出てくる句で、「つゆむすんで、しもとなる」と読まれる。これがいわゆる文選読みで、なるほどと感心することが多い。なぜか、これが近ごろ脳裏をかすめる。
『千字文』はもともと子供用の教材として編まれた。現代日本の教育漢字みたいなもので、きちんと音韻も整理され、中国の伝統文化が色濃く出ている。この歳になって、なぜ改めて読む気になったかを書いてみよう。
初心に帰ってという話なら恰好がよいが、基本ができていない私なら何と書くべきだろう。
無芸大食、年がら年中同じことを繰り返している。何を聞いても何をしても、いつかどこかであったような気がする。こうなると何をやっても感動することがなくなり、心乱れることがない。これもまた穏やかなりとみれば歓迎すべきかもしれぬ。
ただ、一歩踏み出して、新たなことに取り組むこともまた楽しかろう。まったく新しいことでもよろしいが、さまざまな制約を考えると、そうもいかない。というような訳で、若い時に棚上げしたものを、もう一度見直そうというのである。
おさらいをしたいと思ったのは確かだ。また韻文が恋しくなったのは、秋が感傷の季節だからかもしれない。何ともはや陳腐な話である。
私は若いころから詩歌がからっきしダメで、作ることはおろか、まともに読むことすら避けてきた。ただただ、憧れるばかりだった。私の能力からして高尚なものは歯が立たないので、このあたりで目一杯である。
何もやり残したのは『千字文』だけではないが、この句が琴線に触れてしまった。深遠な内容は望めないとしても、しばらく楽しめそうだ。因みに今の心象は、実りの秋というより、冷たい霜が降りて周りがみな冬枯れである。
子供たちが、私の健康やら生活基盤やら気にかけてくれる。彼等のみならず、孫もまた私のことを心配しているという。近ごろ彼が手伝いやら何やらで、しきりに金のことを言い出していた。彼もまた貧乏が身に染みたか、とそぞろ寂しさが募っていた。伝え聞くところによると、どうやら私が原因らしく、自分も役に立ちたいという切羽詰まった気持かららしい。
晩年である。この期に及んで情けないと思わないわけではないが、周りに気遣いされるのも悪くない。最後まで一人で立つぞ。

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