勘違い -リンゴの場合-
この世はすべからく勘違いで成りたっている。珍しく言い切ってしまうが、後悔はしていない。パンドラの箱を開けると手に負えないので、今回はリンゴの話に限ってしまいたい。
閉鎖された社会なら、顔をみれば誰だか分かるし、食べ物も共通することが多い。価値観まで似ているとは言えないけれども、小さな社会特有の約束事で生きていける。共通の情報が多いわけだ。ことさら主語を加えると、強烈に自己主張したとして、頭をたたかれることがある。
ところが個人を単位とする社会なら、人はそれぞれの価値観で、別の方を向いて生きている。生活様式もまたすっかり異なり、好みやものの見方も多様である。
このように近代化された社会では、できるだけ分かりやすく丁寧に、自分を伝える必要が生まれる。
人は主として言葉を使ってコミュニケーションをする。これだけ複雑化してしまえば、同じ言葉が誰にとっても同じ意味であることなどありえない。それどころか、長い目で見れば、自分自身にとってすら意味が変わっていく。
「私は毎朝リンゴを食べる」という文について言うと、例えば言った本人はリンゴを半分に切って、さらに等分し、皮をむいた状態で生食する習慣だったとする。
ところが聞き手は、間違いなく毎朝なのか、本当に毎朝ならいつ頃から続いているのか、どれぐらい食べるのか、この「リンゴ」にアップルパイやジャムなどの加工品を含むのかどうかなど全く分からない。
ところが話し手は、毎日のルーティーンなので、相手がこの文章をかなり分かってくれていると思うだろう。細かく説明するまでもなく、聞き手が内容を想像できると錯覚する。相手も同じようなことをやっていると思い込むわけだ。相手は朝食を摂らないかもしれない。近くで毎日見ている家族なら細かな内容を推測できても、知らない人は「ああ、この人は朝リンゴを食べるらしい」ということしか分からない。
これが話の中心テーマなら、話し手はもう少し掘り下げて説明するだろう。聞き手もその内容を膨らませて楽しむはずである。しかし、彼が習慣をこまごま話すには限界がある。いくら饒舌であっても、どこまでも細かくは説明できない。
詩人なら、前後の関係を斟酌して、自分の伝えたい内容を短文で伝えられるかもしれない。彼らなら内容を相手に強く印象づけることが可能かもしれないが、洩れてしまう情報も多いに違いない。
かくの如く、自分の考えを相手へ完全に伝えられるなどというのは大いなる勘違いである。だからこそ人は言いたいことの筋道を立てて、粘り強く、共通する言葉で伝えようとするのではあるまいか。