浅知恵
昨日のこと、隣の相生まで行くのにレールバスを利用しようとした。友人を訪ねるためである。前日ネットで長良川鉄道の時刻表を眺め、昼に出発することにした。田舎のことなので、一本乗り遅れると一時間以上待たねばならない。しっかり時間を合わせ、自転車で家を出て、定刻前に駅へ着く予定だ。
天気も悪くないし順調にいったものの、切符を買う段になってトラブル発生。私が時間を合わせていたのは何と美濃太田発の下りで白鳥方面行き、相生とは真逆の方向である。予定していた到着時間に間に合わないということで、急遽、相生まで自転車で行く羽目になった。
若い時には、身の程を知るという言葉が好きでなかった。しっかり学べば、自分の殻を破り、新たな視点に立てるのが当たり前だと考えていた。成長過程にあるわけだから、これが全くの出鱈目というわけではなかろう。これが続けば神になるとまではいかまいが、自在な見地を得られると錯覚していた。
今思うと、確かに人はそれぞれ器に少しばかり違いがありそうだ。懸命に生きて、人生で何ものかを得られたとしよう。たとえそれを得るとしても、人は得ようしたものしか得られない。これがとりわけ青春時代に高い志が求められる所以である。
振り返ってみると、自分の能力を勘案して控えめな目標を立てたつもりなのに、それすら届かない。
年を取ったからボケて、上りと下りを間違えたと読み取る人が多そうだ。ところが、かくの如きミスなら若い時から繰り返してきた。この種の間違いを懸命に減らそうとしてきたと言っても過言でない。
『荀子』に「小人之學也 入乎耳 出乎口 口耳之閒 則四寸耳」(勸學篇・13)という文がある。「小人は、人から良い意見を聞くとすぐに分かった気になり、軽々しく口にしてしまう。耳から口まで僅か四寸しかない」と訳してみた。
私はしょっちゅう、ろくに分かりもしないのに分かった気になることがある。人から聞いた情報を温めもせず、すぐに自分の狭い視野へ取り込もうとする。あれとこれを関連付けて、勝手な順序に整頓し、急いで結論へ進もうとするわけだ。
欠落した部分にうまくはまるように見えると、さも真実であるかのように思い込む。落ち着いて時間をかければ、飾りが消えて、本筋が見えてくるのに。
本を読み書きしても同じで、こなれてもいないのにまるで自分が全て考え出したかのように書き出したりする。まさに荀子の言う小人である。
はてさて、どうしたものか。俄かによい案が出てこない。この世は知らないこと、分からないことだらけ。もうこうなっては、浅知恵の域は抜けられないと覚悟して、これを楽しむよりないか。