餅穴(中)

砂鉄を得るのに鉄穴(かんな)流しという方法がある。幾つか変種があるらしい。鉄を含む岩石を砕いて池や谷に流し、比重の差で鉄を沈殿させて集めるという。沈殿させる際に筵を敷いて、大まかに鉄と岩を分ける方法もあるらしい。
池の場合、穴に水を流し込んで池にしたのだろうし、谷川でも適当な深さの淵に砕いた岩を流すような操作をするだろうから同じように考えられる。これでよければ、鉱石を砕いて流し、選別する場所を穴としてよいかもしれない。
たたら製鉄の場合、鉄が溶けたものを「湯」と言う。溶解温度が高く、流れやすくなっているからか。
これに対し餅穴の場合は「餅」だから、「湯」のように流れるという印象はない。銅が鉄と比べ餅のように粘るのだろうか。とすれば餅穴は銅に特化できる名称となるが、確信は持てない。
「穴」については、鉱石を掘った穴ないし製錬するための穴を想定しており、水を使って選別する穴という印象は持っていない。那比に「焼餅穴」という小字があり、むしろ炉を連想することができる。これからすれば、「穴」自身は炉でないことになるが、はてどんなものか。
さて、前回は那比にある餅穴四か所の内、通称名の一か所を紹介した。先週、大よその場所を確認するために、足瀬(あっせ)の餅穴と小谷通(おがいつ)の焼餅穴ヘ行ってきた。いずれも小字である。ことのついでに訪問しただけで、地形や広さを見てきたにすぎない。地元の人に場所を特定してもらった。伝承や民話を尋ねてみたが、どちらも見当がつかない様子だった。
このレポートはいずれ纏めるとして、今回は少しばかり旧穴馬村にあった持穴村との関連に焦点をあてたい。
持穴村は福井県にあった村で、面谷(おもだに)川が九頭竜川に合流するあたりを中心とする集落だった。残念ながら、九頭竜湖に沈んでしまったと聞いている。
面谷川を一里ほど遡ると面谷鉱山があった。銅山である。同鉱山の発見には二説あるそうで、一つは平安中期の十一世紀中ごろ、もう一つは室町時代で康永年間(1340年代)という。穴馬村には、この他いくつも鉱山があった。
穴馬と白鳥とは安養寺の移設など、昔から結びつきがある。明治に入っても、面谷鉱山の労働者が白鳥へ買い物に出てきたらしい。
だが、今のところ穴馬と那比を直接結びつける糸は見つからない。ただ板取を経由すれば、それほどの距離ではない。峠を越えるルートを通じて交流があったかもしれない。そう言えば、那比には越前の塩鯖商人が二間手にあった大日如来を川へ投げ捨てたという話が残っている。

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