小学について
これまで「小学」について説明してこなかった。単なる私の趣味であるし、興味のある人が多いとも思えないからだ。ただこのままにして置くのも残念なので、何かの参考になることを期待して書いてみようと思う。
小学と聞けば、小学校の先生になる勉強とか、小学生が学ぶ内容と思う人が多いかもしれないが、そうではない。
大学と比べて小学と呼ばれている。大学生と小学生の違いを思えば分かりよい。「大事」と「小事」、「大者」「小者」など大小で価値観を示すことを思えば、やはり小学は誰にでもできるつまらない学問だと思われるかもしれない。
大学は四書の「大學」を一応念頭に置いてもらってよいと思う。学問の心構えや国家、道徳など人生の重要なテーマを学ぶ大学に対し、小学はこれを支える語句の音義などを詳らかにする補助学問とされてきた。ここでも大学、小学のどちらがより大事に考えられてきたか一目瞭然である。一つ例を挙げてみよう。
『禮記』所収の「大學」に「富潤屋 德潤身」という文がある。王氏念孫は「潤」について「潤爲益也」と解し、段氏玉裁は「如順切」という音で読んでいる。
そのまま読めば、「富は家を潤し、徳は身を潤す」あたり。大学では富と徳がこの世界で実際に役立つことを学ぶ。
これに対し小学では、「潤」は「益なり」だから「富は家に益し、徳は人となりに益す」という意味になり、今も使われる「ジュン」あたりの音で読んでよいことが分かる。
このように、本文を解釈するのに必要な音訓を加え、理解しやすくするのが小学の役割である。かつて訓詁学などという古臭い呼び方をされたやつだ。
ただし、だからと言って今でもカビの生えた古臭いものというわけでもない。史料や古典を読むにしても、それぞれ語句の意味やら音がはっきりしないと自分なりの解釈すらままならない。私は青年期から小学のほうに魅かれてきた。
漢字は表意文字とされる。象形文字や会意文字などを考えれば、それはそれで間違ってはいまい。だが漢字には形声という作り方もあり、意味を表す部分とある程度音を推定できる部分からなっている。つまり、音についてもアプローチできる余地がある。
ところが言語を使う主体が変わってしまえば音義共にその原形を失ってしまうし、例えそうでなくても、社会や時代が移り変わるにつれてやはり大きく変わる。江戸から明治に移るときを思えば分かりよい。
中でも音は、話をする尻から姿が消えてしまう。まして古い時代の音を探るとなると途方に暮れる。地道に用例を集めていくしかない。