カハラ丁

今回はちょっとした謎解きを楽しんでみたい。ここに「寬文年間當八幡繪圖面」という地図がある。十七世紀中ごろの八幡城下を写した図面だ。当時の様子がよく分かるのでしばしば引用される。
その中で、今の南町にあたる名広川河畔に「カハラ丁」と記されるところがある。名広川は現在乙姫川と呼ばれ、散歩コースとして馴染みがある。
まずは「丁」だが、「カハラ丁」以外にも、「ヨコ丁」「カジヤ丁」「職人丁」「立丁」等があるので、恐らく「町」の声符を取り出した略体だろう。現在の地名を考え合わせると、「チョウ」ではなく、「まち」と読んでよさそうだ。
腑に落ちないのは「カハラ」である。普通考えれば「河原」であって、今の地名では「川原」となっている。従って何ら不思議はないわけだが、どうにも納得できないことがある。「カハラ丁」に河原がないのだ。
恐らく明治になってから描かれたと思われる最勝寺を中心とした図面では、少しばかり川幅が広くなっているところがあるし、川へ降りる土手がもっと低かったという話も聞いている。川沿いに道路をつける際にかさ上げしたかもしれない。
それにしても、町ができるほどの広さをもつ河原があったとは思えないし、遡っても「寬文年間繪圖面」には河原が全くないのである。
そこで、江戸時代の姿をあぶり出したいが、これがまことに厄介で、今のところ史料が見当たらない。明治二十六年だったかの大雨で名広川が溢れた時には、大半の水が立町へ流れ、願連寺の前で橋本町と日吉町へ分かれたという記録がある。その時に川原町がどうだったかを聞き取りに出ても、手ごたえのある情報が入ってこない。
少康状態の後、さらに降った大雨で慈恩寺山が崩壊し、名広川の大水で避難していた住民が大勢亡くなった。その時には恐らく川原町も浸かったことが考えられるが、それほど被害があったという情報を持ち合わせていない。
となると盛土を除いてみれば、ほぼ名広川の右岸が高く、左岸が低いわけだから、ますます右岸にある川原町に疑問が湧いてくるわけだ。
そこで、「カハラ」を「川原」のみならず「瓦」の可能性も考えてみたいのである。旧仮名遣いではどちらも「かはら」で同じ。江戸時代の初めあたりでは、すでに「川原」という意識が定着していたと考えられるが、「繪圖面」の作者がそれほど面倒な漢字でもないのにカタカナを使っているのは、どこかに「瓦」という伝承があったからではあるまいか。
余りにも証拠が少ないので自信はなく、単なる妄想だと言われても仕方がない。それにしても、長年自分が不思議に思っていることを一つ一つほぐしていくのは楽しいし、私なりの終活になっていると思う。

前の記事

第四指

次の記事

寸法