寸法

古来、度量衡は国家の根幹にあたるものとされてきた。これは現在でも同じらしく、時間や長さの基準を設定することに腐心してきたと言ってよかろう。
長さの単位はメートルであり、「国際メートル原器」(1889年~1960年)で定義される。私の思考はここで止まっている。しかしこれでは原器の経年劣化が避けられず、微妙な誤差が生まれるらしい。
この後も基準が変わってきたようで、産業技術総合研究所というサイトを見ると、「クリプトン86の波長」(1960年~1983年)、「光速による定義」(1983年~現在)と変遷した。それに伴い、日本の国家標準は「日本国メートル原器」から、「クリプトンランプの波長」(1960年~1983年)、「よう素安定化ヘリウムネオンレーザ」(1983年~2009年)へ変更されてきたと云う。
現在日本を含め、国際的な長さの基準が光の波長になっているとは知らなかった。「メートル原器」ならごく微細な誤差だが、私の脳には相当な誤差が生じていたわけだ。ある分野では少し進んでも、若い時から一歩も抜け出せていないことを痛感する。
私の世代では、メートル法と尺貫法が混在している。特に長さは、家の間口は三間(ケン、ゲン)とか、一坪がほぼ六尺四方とか、「尺アマゴ」という具合に使われており、これが自然な気がする。
ところが「尺」は、様々な変遷があり、複雑で整理が難しい。『説文』で「尺」は「从尸 从乙」だから会意、段氏もまたこれを追認する。また象形とする説もあるようだ。親指の先から中指の先までまっすぐ伸ばした形を象るとか、人を横に見て歩幅を象るなどである。
定義については「尺 十寸也 人手卻十分動脈爲寸口 十寸爲尺 尺 所㠯指尺規榘事也」(八篇下001)となっており、「人手卻十分動脈爲寸口」の解釈が釈然としない。「卻」は「猶退也」なので「退ける」、「十分」は「一寸」だから、「人の手、一寸の動脈を退けて寸口とする。十寸を尺とし、尺は指尺の基準となる」辺りだろうか。
篆書体からすれば、「寸」という字が左の親指で右手の動脈を測っている指事とも解せるので、このような解釈が生まれたのだろう。その親指の先から関節までの長さを「寸」に見立てたらしい。だが、これだけでは正確な長さが分からない。
周代から秦漢にいたるまで、寸、尺、咫、尋などの長さは人体を基準にしていたから、凡その長さは見当がつくとしても、厳密な意味で距離を測るとなると、地方によっても時代によっても統一し難かっただろう。
因みに、周尺は20センチほどである。春秋戦国時代を経て秦代までは23センチほどで殆ど変化はなかったというから驚きだ。そして漢代でやや長くなったらしいが、それでも大差はない。私の尺観はこれらよりやや長いが、基本となる考え方は毫も変わらない。

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