納得と理解

人は生きる上で一つ一つ納得していければこれに越したことがない。これは確かである。ところが驚くことに、今の私では納得しているのがどういう状態なのか全く見当がつかない。すぐに意味が浮かんでこないのである。
重要な場面で納得するという言葉をしばしば使うのに、はっきりした語義がつかめていないのだから、恥ずかしい限りだ。
気持ちよく過ごすには、できるものから少しずつ片付けていくのが精神衛生によろしい。しばし付き合ってもらいたい。
私が使う例では、「説明を聞いて納得する」、「できるだけのことをやって自分を納得させる」、「その論理は一応納得できた」などである。「得心する」なども類義として使う。
これらからすると自分に対しても他者に対しても、「行為や考え方を尤もだと認めて受け入れる(admit agree receive)」辺りと解することもできそうだ。常々道理にかなった生き方をしているわけでもないのに、ずいぶん生意気なものだ。私は自分が整合性のある生き方をしていると錯覚し、些細な局面でも、筋が通っていると思い込む癖がある。
理解(understand)できるけれども、納得できない場合がある。筋道が通って分かり良くても、どこかに欠陥があるような気がして、心底納得できないようなことである。自分がまっすぐに進みたいとしても、中々うまくいかないことばかり。
人から見て不合理だとしても、本人は何やら理屈をつけて納得しようとする。先輩の忠告やら力のありそうな人の意見に惑うことも多い。先達が説明してくれると、何だか分かったような気になるものだ。
これに対し、自ら一歩一歩理解していくという方法は存外痒いところに手が届くことがある。理解は理性で「分かる」というような意味だろう。分かるは分析や分別など「分ける」義で、例え難しいことでも一つ一つ小さな問題に分けていくと、確かに判然とすることがある。ただ、これを縱橫に活用しても、納得するには不十分である。
その説明にどれほど理性があるように見えても、時宜に適しているように見えても、十分ではないことがあるのだ。やっぱり自分の目で見て、自分の足で歩いて、自分の頭で考え抜かないと後々後悔することが多い。
納得は、他人の行為である場合はこれに同意すること(to agree)。自分自身のそれであれば自分の能力ぎりぎりまで煮詰めて認めること(to admit)。論理や成果などのなど抽象性の強いものは時間をかけて考え抜き、腑に落ちる(deeply understand and receive)あたり。
ややこしい浮世では、目の前にあるちょっとした疑問から手が出そうもない課題まで山積する。理解に留まらず、納得した選択をしたいものだ。

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