大山郷
「大山」は『倭名類聚抄』卷七に越前大野郡の郷として記されている。「於保也末」と訓まれているから、「オホヤマ」と読んでよかろう。この郷については写本系列のややこしい話がないので安心である。
『和泉村史』では、「大山郷 厳密には不明、大野南方の旧上庄村の北部、小山村を小山荘という場合があり、この地方か」と推測されている。
部外者である私がこれをあげつらうのも剣呑だが、何だか腑に落ちないので、少しばかりここで拘ってみたい。
郡上では那比(なび)に対して小那比(おなび)という地区がある。名称の類似から、関連性がうかがえるとしても、未だ繋がりについてはっきりした証明がなされていない。
大山郷に対して残存地名が小山荘であるという点が、どこかでつかえて納得しにくい。
外から見ると、大野の大山(オホヤマ)と言えばまず荒島岳が思い浮かぶ。越前大野市の東南にある独立峰で、泰澄大師が修行したという伝承がある。深田久弥著の『日本百名山』で選定されており、山頂に荒島神社を擁す。
この荒島神社は『延喜式』(卷十 神祇十 神名下)に「越前國一百廿座 大野郡九座 荒嶋神社」として載る「荒嶋神社」に関連すると考えられている。来歴の確かな信仰の山である。
荒島岳は大野市東部を北流する真名川水源地の一つとみてよかろう。「旧上庄村の北部、小山村」は、荒島岳から離れている印象をもってしまう。今は裏道にあたるらしいが、佐開(さびらき)に荒島神社がある。明治になって荒島岳中腹から移されてきたらしい。これと山頂の神社が対になっていたのではあるまいか。
大山という名からすれば、「越の大山」を連想することもできる。私はこの場を借りて「越の大山」(2010年3月16日)というテーマで書いたことがある。その時は「越の大山(ダイセン)」と読んだ。日本語は音訓があるので一筋縄にはいかない。今回は「越(こし)の大山(おほやま)」と読む。この場合、「越」も「大山」も訓読みなのでそれなりに一貫性がある。『萬葉集』に載る山としても固有名詞と断定できるわけではないが、海路にしても陸路にしても都からの道中とすれば、白山を指すと考えてよいかもしれない。
ここでは越前大野郡の「大山郷」だから、白山と離れすぎていると考える人もいるだろう。だがこの時期にはすでに白山は信仰の山として隆盛し始めていただろうし、いずれにしても主として大野郡を介して白山へ取りついたことに間違いなかろう。加賀や美濃馬場の繁栄はこれよりやや遅れたのではなかろうか。
逆の場合も考えられるが、この大山郷が「越(コシ)の大山(オホヤマ)」の遺称だとすれば、越前馬場が最も早く開け、かつ少なくとも平安時代中頃までは不動の中心だった証拠になりそうだ。