時間を撮る

これだけでは何のことか見当がつかないだろう。この場合、時間は普通に一日が明けて暮れるというような意味、撮るというのはカメラで写すことである。
私は少しばかり絵を描くけれども、写真を撮るという趣味はない。八幡に来たばかりだったか、こちらの神社や寺に興味を持ち、バイクであちらこちらへ出かけて写真を撮っていたことはある。
但し私に芸術性があるわけもないし、気に入ったカメラを持っているわけでも、技術を持っているわけでもない。特別な機能が何もない安いカメラで、スケッチを書く暇がない時に、撮っておくだけのことだった。
それでも写真を眺めていると不思議な感覚をもつ。神社や寺は世代を超えて人の願いや鎮魂を受け止めてきた。古びた写真にして今なお存在感がしっかりしている。公私の違いがあっても、古い家や墓なども似たような感覚を呼び起こす。
それだけにこれらが寂れていくと、もの凄く荒れ果て、むごたらしくなる。祀る人がいなくなる前に他の神社へ合祀したり、無縁になりそうな墓の性根を抜いたりする。
朝日や夕日など天体を写したものもある。高尚なことを知るためではなく、ただ美しいと感じて撮ったにすぎない。これらは自然の営みの一瞬を切り取ったことになるだろうか。天体にも生老死があるそうだから軽々しく言うのも気が引けるが、何か自分も永遠の一部という感覚に浸ってしまう。随分時間が経ち写真自体が古くなっても、全く古さを感じない。
山川や海もまた美しい。「国破れて山河在り」と言うべきか、「山海に神あり」とすべきか。時に怒って大災害をもたらすとしても、それ故いよいよ畏敬の念を抱く。
これらは季節が巡るように、何度も写真が生き返るという感じがする。
生き物を写したものは一瞬を切り取ったとしても、それぞれかけがえのない一瞬である。歴史の一部になるとしても、それとしては古くなるばかりだ。草花もここに入れてよいだろう。
人なら七五三の写真や遺影など個人にかかるものと、集合写真がある。私は子供時代をただただ懐かしい気持ちで眺めることはない。必ず苦味があり、気持ちに余裕がなければ決して見ない。
私が育った地区ではかつて小学校の修学旅行で伊勢へ行ったものだ。神宮前で撮った集合写真を見ると必ず感謝の気持ちが湧いてくる。貧しいながら、積み立てて行かせてもらった。
かくの如く、生き物を描いたり撮ったりするのは誰がやっても記念になる。生まれてから死ぬまでの時間を一瞬たりとも何かに代えることができないからだ。
テーマが煩雑すぎたので、対象の一面だけを取り上げた。

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